劇場公開日 2024年4月19日

死刑台のメロディのレビュー・感想・評価

全16件を表示

4.0約100年前もいまも、やはり絶対の正しさなんてない。

2024年5月18日
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鑑賞方法:映画館

実際の裁判の再現作品、その公開そのものも1971年と約50年以上前。
こういう作品に面白かったとううのはちょっと違うかもだけど、ニコラとバルトロメオ、二人の姿勢がそれぞれで
、やるせない、救われないのも含めいろいろ考えさせてくれた。
どちらかというと裁判での論理的なアプローチは100年前も心象あまり変わらないんだなとも思った。
司法側が仕掛けた冤罪事件。イデオロギー。下山三鷹松川事件とか。。
いまは別の正義が声高で、正しいというのは誰にとっての正しさなのかなと考えてしまうのも、それほど大きくは変わらないのではと思ってしまった。
無政府主義が正しいとは思わないけど、アメリカのいまの正義も大概じゃないかな。

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kawa

4.0苦しい

2024年5月10日
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鑑賞方法:映画館

遊ぶ時の幸福感を忘れないで・幸福感は独り占めするな/20年代・40年代・70年代・今、と人間は同じようなことをしている。今の日本だと、アナーキズムに賛同するほうが悪い、みたいなことを言い出す人もいそう、なんて先回りして心配してしまった。権力による抑圧を内面化している人が多そうだよね、なんて。

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ouosou

3.5迫真の社会派映画だが、モリコーネ音楽がフィットしているかというと……?(個人的意見)

2024年5月8日
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鑑賞方法:映画館

朝イチの回を観ながら思った。
新宿武蔵野館は、エンニオ・モリコーネを口実にして、政権交代が叫ばれる昨今の日本の政治事情や、いよいよ近づいてきたアメリカ大統領選に向けて、「左派系の社会派映画」を上映したかっただけなんじゃないだろうか?(笑)

本作はいわゆる「法廷映画」である。
それも、『十二人の怒れる男』や『推定無罪』、『レインメーカー』などと同様、捜査シーンより法廷内シーンのほうが圧倒的に多い、ゴリゴリの法廷闘争ものであり、しかも歴史上「冤罪で無実のアナーキスト二人が強盗殺人罪で死刑に処せられた」ことがわかっている「不当な」裁判の記録でもある。
その意味では『裁かるるジャンヌ』のような「宗教裁判」「魔女裁判」ものの気配も漂わせている。すなわち、これは国家によって悪と認定された人々が、法治主義を偽装した「権力による断罪」によって、人権を無視して電気椅子へと送り込まれた恐ろしい歴史的事実を告発する映画なのだ。

内容としては当然すこぶるつきに政治的な映画だし、当時の州知事や判事、検事に対して大変批判的である。一方でリベラル(アナーキストと訳される)に対しては総じて宥和的で好意的だ。これは、左派勢力が伝統的に強いイタリアで、特に映画業界には極左的なスタンスの人間が多いという状況がモロに反映している部分もあるだろう。

僕個人は決してアナーキストや極左勢力に殊更のシンパシーがあるわけではないし、自らの生きづらさを社会や国家や時の政権のせいにして、あたら正義を振りかざしているような手合いとは距離を置いて生きている。
ただしこのスタンスは、なんだかんだいってそれなりに生きやすい日本で生活しているからそう言えるのであって、最低限の社会正義や人種意識や法的公正さすら認められない社会であったならば、その限りではない。
本作で描かれるアメリカの1920年代というのは、まさに「変革されるべき」不平等と不誠実がはびこる極端なWASP至上主義の時代だった。

本作における検事&判事&陪審員は、明快すぎるほどの「悪」として描かれる。
だから、本作を観ているあいだは、僕も十二分に権力者に対してムカつくことが出来た。
検事の差別感情剥き出しの態度にいきどおり、判事のあり得ないような不公平な姿勢に、おおいに義憤に駆られる。
というか、昔から欧米の法廷ものを観ていると、出て来る弁護士や検事の手腕次第であまりに裁判結果に差異が生じるようなシステムになっていて、ここまでプレイヤーで左右される裁判ってどうなのかしらんと思わせられることが多いんだけど、今回のは本当にやり口がひどすぎる。ここまで恣意的で、被告に対して敵意も侮蔑も隠さないような議事進行が許されるなんて、本当に許しがたい。

一方で、法廷劇としてはなんとなく「ぬるい」印象を与える点は否めない。
事実に即して物語が組み立てられている以上、実際そうであったのなら変えようがない部分もあるのかもしれないが、いろいろもう少しやりようがあっただろう、という気もする。

まず、サッコにもヴァンゼッティにも、かなり明快な「アリバイ」があるのに、そこが判事によって証拠として採用されないというのは、さすがに無理押しが過ぎる。これが本当なら、そりゃあ暴動も抗議も起きるよなあって話。特に移民局の官吏の証言と入館メモを「シンパの偽証」として切って捨てるのは、まあまああり得ない(これを信頼できないと言い出したら、何一つ証言など採用できなくなる)。てか、自分が弁護士ならもっと「アリバイ」の証明に命をかけるし、最終弁論などでもそこを強調するけどなあ。

明確に偽証している人間が複数名判明しても、別に真犯人に当たる人物が名乗りをあげても、それらがすべて「弁護士による強要」として証拠不受理になっちゃうというのもあまりに理不尽に過ぎるし、逆に言うと弁護側はもっと慎重かつ組織的に立証すればいいのにとつい思ってしまう。
まあ何にせよ、あの判事は何も認める気がないんだから、どうしようもないのだろうけど。判事の罷免要求や交代要求の手続きってのは、当時存在しなかったのかなあ。
だからといって、ヴァンゼッティのようにあの場所で熱く政治的な演説をぶっても、法廷闘争上はマイナスの効果しか生まないのも分かり切っているし、いろいろもやっとする。

全世界であそこまでの反対運動が巻き起こっていて、対応を協議しているトップクラスがマサチューセッツ州知事というのも、若干気になるところ。
あれだけ世界中で問題視されれば、国家(=大統領)が再審の判断に暗に介入してきそうなものだけど。
だって、あそこまであからさまな恣意的な議事進行が記録に残っていて、あれだけの反対運動が世界中で巻き起こっているのに、法秩序の権威のためにごり押しで有罪を確定させて死刑執行に突き進んでも、何一つボストンの法曹界にもアメリカ国家にも、プラスとなる要素なんてないと思うんだよね。
逆に、あれだけの反対運動が起きているのに、それをうまく超法規的措置へとつなげていけない支援グループの「政治力」の無さにもいらっとさせられる。
事件が政治問題化してしまった以上は、逆にアメリカとしても一歩も引けない状況になってしまったということか。

というわけで、無理くり二人を死刑に追い込もうとする連中にムカつきながらも、ここまで相手側のやり口がズサンでつけ入る隙のある状況なのに、二人を救う手段を見出せない弁護側に対するもどかしさも、ずっともやもやと感じながら観ていたのだった。

― ― ―

ちなみに、アバンで展開される「赤狩り」――イタリア人の労働組合を官憲が襲撃するモノクロのシーケンスは、言葉を喪うほどに素晴らしい。
画面内のモチーフが徹底的に統制され、様式化されている。
斜めに移動する警官隊の群れ。
路上に延びる影と建築物が交錯する。
入念にリハーサルされたマスゲームのような美しい動き。
引きとアップを切り替えるカメラのリズムが、静寂から暴力への転調と呼応する。
スクリーンの端々まで、監督の意図したとおりに人が動き、監督が思い描いたとおりのヴィジョンが現実化している。

このひりついた緊迫感と透徹した演出を全編にわたって行き渡らせることに成功していたら、本作は他のネオ・リアリズモの名作群に負けない傑作に仕上がっていたはずだ。
だが、映画は本編のカラーパートに入ってからは、比較的まっとうで癖のない演出とカメラワークに落ち着いてしまう。
もったいないといえばもったいないが(せっかくやろうと思えば出来ることがわかっているスタッフなのに……)、やりたかったことはそういうエッジのきいたドキュメンタリー・タッチの映画ではなかったのだろう。

「もっとハードでリアルなタッチのドキュメンタリー風映画」を志向すればきっと傑作になり得たのに、「若干情緒的で観客を煽るような政治的に偏向した映画」に仕上げたせいで損をしているという印象は、実はエンニオ・モリコーネの音楽とも無関係ではない。

モリコーネ・ミュージックとして、『死刑台のメロディ』は傑作サントラの一つとして知られている。とくにジョーン・バエズが歌う「サッコとヴァンゼッティのバラード」と「勝利への賛歌」は、ほぼすべてのベスト盤に収録されている、誰もが代表曲として知る名曲だ。
だが逆に、映画にとってモリコーネの音楽は本当にふさわしかったのだろうか?
そう言われると、僕個人の意見は「NO」としか言いようがない。

先に言っておくと、先般上映されたジュゼッペ・トルナトーレの『モリコーネ』の感想でも書いた通り、僕はエンニオ・モリコーネの大ファンであり、マニアとは言えないまでもかなりのサントラを所有しているし、その素晴らしさは人一倍知っているつもりだ。
だがやはり、それでも僕は思う。モリコーネ・ミュージックは、こういう告発型の社会派映画には向いていないと。
だって、せっかくのシュアでシリアスな「ドキュメンタリー」が、あのメロウで情動的な音楽が流れることで、『世界残酷物語』のようなモンド映画の「モキュメンタリー」みたいに感じられてしまうから。どうしてもモリコーネ節がオルトラーニ節みたいに聴こえてしまうから(笑)。

モリコーネの音楽は心を動かす力が強すぎて、どうしても観客を「煽動」してしまう。
主人公をヒロイックに見せてしまうし、共感を呼んでしまうし、正義を鼓舞して悪を断罪するような情緒的な反応を引き起こしてしまう。
でも、たぶんこの手の映画にとって、そういうのは「余計」な要素なのだと思う。
似たような社会派的な題材でも、ベルナルド・ベルトルッチは『1900年』でモリコーネ・ミュージックを理想的な形で用いていた。あのくらい叙事詩的で、ヒロイックで、壮大なスケールの歴史絵巻に仕上げるなら、モリコーネはぴったりの巨匠なのだ。
だが、本作のような密室法廷劇では、モリコーネのクセのある音楽は、たぶんとても使いづらい素材だったはずだ。

結局のところ、監督のジュリアーノ・モンタルドはモリコーネ・ミュージックをかなり「もてあましている」気配が強い。実際、本作のなかで音楽が流れるシチュエーションは、きわめて限定的だといってよい。要するに、モリコーネがこの映画のために作った曲は「あまり中で使われていない」。
パンフによれば、モリコーネは主題曲の「サッコとヴァンゼッティのバラード」だけで曲調の違う3パターンの楽曲を作っているらしいが、映画のなかで使用されたのはその1パターンだけだ。映画の大半を占める法廷内のシーンでは、そもそもほとんど音楽自体が流れない。たまに出て来る回想シーンとか街頭デモのシーンとかでいきなり音楽がかかるから、曲が「どこか悪目立ち」する。
結果的に、ジョーン・バエズの扱いにしても、ベトナム反戦歌みたいなきわめて情緒的でメッセージ性の強いものになっていて、個人的には若干むずがゆい感じだった。
いやあ、当然ながら曲自体はホントに良い曲なんだけどねえ(笑)。
当時の邦題を担当した宣伝マンも、モリコーネの音楽に強い衝撃をうけたからこそ、わざわざ『死刑台のメロディ』ってタイトルをつけたんだろうし(原題はただの『サッコとヴァンゼッティ)』。
ただ、どうも僕にとっては、使い方も、映画との兼ね合いも、あんまりしっくりこなかったという印象でした。なんかすいません。
とはいえ、こうやってサントラのみで知っていた映画を映画館で観させてもらえたのはありがたい限り。

以下、備忘録。

●あれだけ『荒野の用心棒』と『夕陽のガンマン』が好きだとか言って回っているのに、エンド・クレジットを見るまでヴァンゼッティがジャン・マリア・ヴォロンテだって気づいていなかった。ただただ自分が恥ずかしいです(笑)。藤本隆宏みたいな俳優さんだなとか思いながら見てました。

●こういう裁判で、容疑者二人がずっとツーマンセルで行動させられているのも(刑務所すら同じで、しかもお互いが見える範囲で収監されている)、今の感覚からすると不思議な感じがする。共犯の被告って、そういうもんだっけ?
あと法廷に出廷するときって、被告はずっと蝶ネクタイ着用のまあまあ良い格好してるのな。

●電気椅子のことも、一応死刑台って言って良いんだろうか?

●パンフでセルジオ石熊さんの解説を読んでいたら、モンタルド監督の作品として、『クローズド・サーキット』(78)というテレビ映画が紹介されていて、いわく「ジュリアーノ・ジェンマ主演のマカロニ・ウエスタンを上映中の映画館で連続殺人が起きるというルイス・ブニュエル的不条理心理劇」らしい。やっべえ、超観てえ!!

●もし数年前にこの映画を観たのなら、「1920年代のアメリカの裁判なんて、たかだかこんな程度のもんだったんだなあ」といった印象を持っただけだったろうが、2024年になって改めてこれを観たとき、裁判手続きのインチキぶりや恣意的な判決、ごり押しの法執行といった部分が、たとえばロシアで現在行われている裁判あたりと「なんにも変わっていない」ことに衝撃を受ける。人間というのは、本当に愚かしい生き物だと思う。

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じゃい

5.0かなしい冤罪事件

2024年5月3日
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鑑賞方法:映画館

泣ける

単純

知的

死刑台のメロディ4K リマスター・英語版
神戸市内にある映画館「シネ・リーブル神戸」にて鑑賞 2024年5月1日(水)
パンフレット入手

1920年にアメリカで実際に起った、サッコとバンゼッティ事件の人種的・思想的偏見に満ちた裁判を忠実に映画化したドキュメンタリー作品
ジュリアーノ・モンタルド監督
エンニオ・モリコーネ音楽担当

1971年イタリア・フランス合作映画原題:Sacco e Vanzetti、米国ではSacco and Vanzetti)

ストーリー
1920年初頭のボストン、なんの前触れもく、イタリア労働組合が深夜に当局の一斉摘発を受けた。乱暴な警官たちは、事務所にいた男たちを殴り建物の中にいた活動家たちを次々と捕縛していく。時の司法長官アレキサンダー・ミッチェル・パーマー(ジョン・ハーヴェイ)による左翼弾圧の一環であった。第一次世界大戦をめぐる社会混乱とロシア革命に端する共産主義への不安と恐怖は、アメリカを「赤狩り」へと駆り立て、アナーキストの移民労働者たちを資本主義の根本を揺るがす社会悪と見なしていたのである。国家転覆の先導者として逮捕されたイタリア人活動家のアンドレア・サルセドなどは2か月の拘束の末、取り調べを受けていた14階留置所から落下するという不審死を遂げていた。
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辛くも一斉検挙の難を逃れた二コラ・サッコ(リカルド・クッチョーラ)と ロメオ・バンゼッティ(ジャン・マリア・ヴォロンテ)だったが、五か月後の1920年5月5日、ブラックトンに向かう電車内で突如、逮捕されてしまう。ふたりは活動家の仲間とともにブリッジウオーターへ修理に出した車を引き取りにいっただけだったが、彼らを怪しく思った修理工事主ジョンソンの妻が警察に通報したのであった。都合が悪いことに、両者とも護身用として拳銃を不法に所持していた。
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サルセドの不審死に恐怖を感じていたサッコとバンゼッティは労働組合員やアナーキストの側面を隠そうとし、取り調べても仲間の名前に知らぬ存ぜぬを貫いていたが、4月15日木曜日3時に南ブレントリー郡の製靴会社で起こった現金強盗殺人事件に関して、まだ解決の糸口を見つけられずにいた警察と検察は、彼らを容疑者とみなし、彼らがついたウソをダシにして犯人に仕立てあげようとする。
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裁判では検察側にフレデリック・カッツマン検事(シリル・キューザック) が立ち判事にはウェブスター・サイヤー(ジェフリー・キーン)が就いた。どちらもイタリア人移民を快く思わず、強盗殺人の疑惑に便乗して、サッコとバンゼッティの活動家の面も追及しようとする。弁護側に立ったフレッド・ムア弁護士(ミロ・オーシャ)は実績のある人物だったが、不遜で攻撃的な態度が陪審員の心証を悪くしていった。
事件の目撃証言は大半がいいかげんで曖昧、現場に落ちていた帽子なサッコが着用していたものという証言もあったが、実際にサッコがかぶってみると小さくて頭が入らない。一方で確かな証言をしようとした老人などは検察一派が黙らせてしまう。
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サッコには4月15日に南ボストンのイタリア領事館に行ったというアリバイがあった。実はサッコはアメリカ生活に見切りをつけ、故郷のイタリアに戻ろうとしていたのだ。領事館の職員がその旨を法廷で証言したが検察側はこれを黙殺。バンゼッティにもボストン近郊のプリマスで魚を売っていたという目撃証言が数件あった。しかしこれらについてもイタリア人同士の示しあわせとして判事と検事は全く取り合わない。さらに銃器鑑定では、被害者を死に至らしめたのはサッコが所持するコルト32から発射されたものに間違いないとのゆがんだ結果が下る。これに憤ったムアは叫んだ。「この法廷では、被告席がいちばんクリーンだ。検察側のやり口は人種差別だKKK(クー・クラックス・クラン白人至上主義主義の秘密結社)の発想と変わらない」と。
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証人席に座ったバンゼッティはついに自分はアナーキストだと宣言する。サッコは徴兵逃れのためメキシコへ逃亡していた過去を問われた。カッツマンは「愛国者がなぜ徴兵を逃れる?」と糾弾し、これにサッコは「アナーキストだから、人を殺す権利など誰にもない」と答える。
バンゼッティは「無政府状態(アナーキー)は国境のない世界をつくる。我々は階級が存在せず、自由が約束され、互いを大切にする社会を望んでいる。」と語ったが、カッツマンは発言を逆手にとって、いかにふたりがアメリカの愛国者ではないかを陪審員に向けて強調しながら、ストを行う警察官を撮影した写真を配り始めた。ムアは「労働者や組合への攻撃こそ、この裁判の目的だろう!」と怒りをぶちまける。
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1921年7月14日、陪審員の意見は2時間で一致、サッコとバンゼッティに対して「第一級殺人罪で有罪」の評決が読み上げられた。これと同時に、彼らを助けようとする救命委員会が発足、サッコは妻から慰めを受けるも、絶望して発狂寸前の状態になってしまい、刑務所病院へ搬送される。バンゼッティは静かに獄中でもできることを進めた。
弁護士の座を追われたムアに変わり、ウイリアム・トンプソン(ウイリアム・プリンス) が代役を買って出る。トンプソンは真犯人とおぼしきマンチーニに行きつくが、事件で使われたとおもわれる銃は何者かによって持ち出されていた。
弁護側の再審請求はあえなく却下。一方錯乱から回復したサッコは刑務所仲間に温かく迎えられる。
アルヴァン・フラー知事(エドワード・ジュズベリー)のもとには、全国からサッコとバンゼッティの救命嘆願書が届く。だが、保守派のフラーはこれらをにべのなく退けた。
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最終陳述でバンゼッティは語った「私は無実だ、私は生涯でただの一度も罪を犯したこともない。私が望んだのは正しい世界をつくること、そのためには他人を抑圧する人間を止めなければならない。生まれかわっても、同じ人生を生きるつもりだ」最終陳述に「何もない」と答えたサッコにバンゼッティは格子越しに伝える。何も抵抗しなかった君は正解だ。奴らはただの人殺しだ」
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1927年4月9日 セイヤー判事はからサッコとバンゼッティに死刑判決が下された。
8月22日 サッコは息子へ充てた手紙を机上に残すと、向かい部屋のバンゼッティと視線を交わして静かに処刑室へと歩き出した。手紙には「遊んでいるときの幸福感を忘れるな。幸福感を独り占めするな」とあった。その様子を見届けたバンゼッティは「私は無実だ」とひと言、毅然とした態度で処刑室へ歩きだし電気椅子に座った。
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感想

このような理不尽な冤罪事件があったことを、今まで知りませんでした。
自分なりに調べてみました。かなり知られている冤罪事件だったということで認識不足で恥ずかしいです。

アナキストが迫害されるというのは、同時期に日本でもあったような気がしてなりません。
治安維持法です

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大岸弦

2.51920年代の米国、イタリア系移民と、共産主義への差別、裁判劇

2024年5月2日
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死刑台のメロディ
1920年代の米国、イタリア系移民と、共産主義への差別、裁判劇
当時のイタリア系移民への差別の酷さ。。 政治思想での弾圧。。
冤罪で電気椅子。裁判劇。

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東條ひでき

4.5学び

2024年4月29日
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どの時代でも見るべき作品。偉そうで申し訳ないがw
最初は事件がどうなるのか、真犯人は?というのを追うのかなーとか思って見てましたが、そうではなく、差別や冤罪、思想や政治などが入り乱れて、今でもあるテーマで、考えることは多かったです。
後は挿入歌が凄く良かった。これがあって映画が完成しているといっても過言ではない。
見てよかった。

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TPO

5.0今の時代にこそ観るべき名作

2024年4月28日
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泣ける

興奮

知的

タイトルとジョーンバエズの歌は知っており、名作であることは聞いていたが、60歳のいままで観る機会がなかった。昨年「モリコーネ 映画が恋した音楽家」を観て感銘を受け、記憶に新しいところで今回の特集上映があり、ぜひ観ておきたいと思った。
採点で満点を付けることはまずないのだが、この作品は別格。何一つ欠点が思いつかない。モリコーネの音楽は言うまでもなく、主演者の演技も皆完璧、過剰な演出はなく、深く心に染みるセリフの数々が盛り込まれている脚本が見事。うわべだけの感動でなく、心の底の方にずしりと響くような、目を背けられないメッセージを突き付けられた。こんな映画体験はなかなか味わえない。あえて欠点らしきものを上げるなら邦題。「死刑台」ではなく「電気椅子」なので、少々違和感がある。
1920年代にアメリカであった冤罪事件を描いており、どう見ても明確な有罪の証拠がないにもかかわらず、実質的にはアナーキストだからという理由で罰せられる。このような理不尽な裁きというものは、形を変えて現代社会でも発生しているように思う。例えば、無実の黒人が警官に殺害され、罪に問われない事件などが後を絶たないし、まさに今年の大統領選挙の焦点のひとつである移民の問題が、この映画の時代から脈々と継続していることを感じる。
と、知ったふうに書き連ねたが、それほどアメリカの現代史に詳しいわけではないので、この作品を観て1920年代の状況を知りたくなった。ときに映画は歴史の教科書にもなるので、いろいろな年代の方に観てほしい、特に今のように世界が混沌としている時代にこそ観るべき作品だと思う。

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TSアラヨット

4.0冤罪事件を作るための教科書

2024年4月28日
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合衆国裁判史上最悪の冤罪事件を、あえて当事者の母国のイタリアで映画化した問題作です。アナーキストのイタリア人が、全く無関係の強盗殺人事件の犯人として、あれよあれよと有罪にされ死刑になってしまうお話しで、100年前の事件とは言え衝撃的です。前半が冤罪法廷篇、後半が再審請求篇で、いずれも思想や人種に対する強い偏見で、捏造、陪審員誘導、証人脅迫、証拠隠滅とありとあらゆる手段で冤罪が作られる構造が不気味で、現在でもあり得るようなお話しです。役者では、マカロニで悪役の多いジャン・マリア・ヴォロンテ、地味ながらリカルド・クッチョーラが大熱演でした。

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シネマディクト

4.5ところどころ台詞が刺さった せつなすぎて、、、何も言えない

2024年4月23日
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ところどころ台詞が刺さった

せつなすぎて、、、何も言えない

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jung

5.0何度でも見よう、忘れないように。

2024年4月20日
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イタリア移民かつアナーキストへの差別偏見による冤罪での死刑としてよく知られる史実だが、今回古くなったフィルムからキレイにした映像で見られるようになったのが素晴らしい。ずっと見られる状態で受け継いでほしい。

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Boncompagno da Tacaoca

4.0モリコーネの旋律とバエズの歌声が心に染みる

2024年4月20日
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中学生の頃に日曜洋画劇場で観たよりも、より深く感銘を受けた。
何故なら世の中はよりひどく偏見にあふれているからだろう。

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ムーラン

5.0ジョーン・バエズの歌

2024年4月19日
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エンドロールで流れる "Here's to You" が頭から離れない。モリコーネの音楽とバエズによる詞と歌;「勝利への讃歌」という邦題は大袈裟でちょっと引いてしまうが、あまりの理不尽と差別に怒りでカッカした頭を冷やして休ませ、サッコとバートを愛おしく優しく包んでくれる。

サッコ=ヴァンゼッティ事件はアメリカ合衆国の裁判史上最悪の冤罪判決で世界各地で抗議運動が起こり批判されたらしい。バートが言ってたようにこんなことで有名になりたくなかったろう。仕事をして家庭があって友達がいて、戦争と柵がなくて幸福を独り占めにしない社会を作れたらと思っていただけだ。この映画が制作されたのがこの事件の50年後であることの意味も大きい。1968年の各国の学生運動、ベトナム戦争と反戦運動、価値観のひっくり返しと改革の気運のあった時期だ。一方で日本の学生運動は何を若い世代に繋げて行きたいと思ってくれたんだろう?

日本に生まれ育ち母語も日本語なのに職質される頻度が圧倒的に高いのが「外国人」という外見判断によるものだと最近知ってショックだった。この映画の裁判場面で頭にきて心が痛かったのは「英語もろくに話せないのに」「職を得て金儲けの為にアメリカに来たのか」「イタリア人は友達を大事にするからな」といった言葉だ。思想弾圧と移民・人種差別が荒れ狂った時代、それから100年以上たっても人間も社会も変わらない、と言いたくなってしまう。でもよくなっている部分があることにも目を向けたい、その程度には楽観的でありたい。

この映画を見ることができてよかった。「泣いても涙を無駄にするだけ」とサッコに言われるだろうから泣かないようにした。

おまけ
死刑を執行したマサチューセッツ州は1984年、死刑廃止の法案を成立させた。冤罪の可能性をゼロにすることはできない、殺人をする権限は国家にない、だから死刑は廃止して欲しいと思う。

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talisman

5.0世界恐慌、ファシストの台頭、そして、戦争。

2022年7月30日
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鑑賞方法:DVD/BD

世界恐慌、ファシストの台頭、そして、戦争。
どんな場合でもそうだが、犠牲になるのは市井の人々。この主人公が言うように、搾取する側の体制に問題がある。
彼等は共産主義者では無い。アナーキストって言っている。自由を愛するアナーキストって言っている。
アメリカが狂っている理由は、三権分立がきちんと機能していないから。
そして、今の共産主義国家と呼ばれる国は、三権分立が存在しない。また、現在、共産主義国は存在しない。すべて、国家社会主義国。つまり、全体主義国家と言うことだ。
因みに
先日の事件が、あの宗教団体が発端とするならば、もともとはアメリカのソ連や中国を仮想敵国とした反共主義から受け継いでいる。レッドパージ 赤狩り 勝共連合。ってことかなぁ。
本当はアメリカ一辺倒は辞めるべきなのにね。まぁ、彼はおじいちゃんから受け継いた負の遺産をまともに受け継いだ様なものだけど。
追伸、アメリカには共産党が無い。あるとされるが、5000人位らしい。資本主義国家だから、当たり前。勿論、非合法な政党で、選挙に立候補出来ないし、議会に参加する事も出来ない。(確か、1950年位から)
追追伸
メーデーはアメリカが起源。ストライキと行進。サッコとヴンゼッティが言う闘争はこの程度の話。アナーキストでもないはずだ。

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マサシ

4.5「利他する幸福を」から遠い今の世界情勢

2022年6月4日
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鑑賞方法:DVD/BD

かつてロードショーだったのか、
名画座でのものだったのか、
定かではなくなったが、
いずれにしても何十年ぶりかの鑑賞。

当時はそんなことを思いもしなかったが、
今回の鑑賞でまず驚いたのは、
この作品は伊・仏映画なので
本来は当たり前なのだが、
イタリア語中心で描かれた米国舞台作品
ということで妙な違和感があった。
この物語、実際に交わされた言葉は
英語が中心で補助的にイタリア語が、
なのだろうが、
興行上の理由から作品の舞台を問わず
英語を前提に制作される映画を観ることに
慣れているくせに、
逆のパターンには違和感を感じる。
間違った感覚なのかも知れない。

更に思い出されたのは、かつての鑑賞で
この作品の原題名が二人の名前
「サッコとバンゼッティ」
であることを意識した記憶だった。
若い頃は「哀愁」「俺たちに明日はない」
「明日に向って撃て!」等々、
たくさんのタイトル改変作品に接していたにも関わらず、
タイトルバックもろくに見ないでいたので、
タイトル改変を知ることなく
鑑賞することが多かった。
しかし、この鑑賞から、
改変タイトルでの興行も
多いものなのだなあ、と
意識しだす切っ掛けとなった作品だった
ことも思い出す。

内容としての若い頃に鑑賞した時の記憶は、
ただただ理不尽な判決への憤りだったが、
この度はこの作品の現代的価値を認識する
鑑賞となった。

サッコの死刑執行直前の息子への書き置き
「利他する幸福を」の言葉が重い。
共産主義体制国家も、この精神を忘れて
国民の精神的幸福を奪った。
民主主義の行き渡ったように思える多くの
資本主義諸国でも、
人種差別やイデオロギーの異なる
グループへの理解が及ばず、
結果、他人の幸福を己の喜びとする精神を
見失い国内の混乱を招いている。

理不尽にも、
「利他する幸福を」を忘れた強大国家が
暴力で隣国を蹂躙する。
こんな時代だからこそ、
今こそ観るべき作品のように思えた。

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KENZO一級建築士事務所

4.0パーマーレイドは現在進行形なのだ

2020年8月19日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

冒頭とラストシーンのみ白黒映像で、ドラマ仕立てであるカラー映像での本編と区別をつけている
それは白黒映像の部分は厳然と事実であり、一切の脚色をも排したという意味であろう

冒頭の警官隊の手入れは、パーマーレイドと呼ばれる左翼狩りのシーンだ
時は1920年、日本なら大正10年のこと
日本の治安維持法は1925年の制定
本作のラストシーンは1927年
つまり日本の治安維持法による共産主義の弾圧は、本作に描かれている米国の事件からも影響を受けていたのかも知れないと言う視点を得た

民族、思想信条
そんなものによる偏見で無実の罪を着せられ死刑宣告をうける二人
確かに米国の汚点そのものだろう

ジョーン・バエズの歌は2回歌われて、エンドロールで大ヒットした主題歌「勝利への賛歌」が流れる
エンドロールが終わり画面が真っ暗になってもなお30秒流れ続ける
その余韻が心に染み入る効果をねらったものだ

公開は1971年
ベトナム反戦運動の真っ盛り
学生運動への弾圧をパーマーレイドの相似形として捉えようとした作品だ

だが今は21世紀
本作公開から半世紀もの時が流れた
冒頭の事件からは、ちょうど100年が流れたのだ

死刑を宣告されたバンゼッティは知事に呼び出されて、何故恩赦を請願しないのかと問われて理由を答えるのだが、その中にこんな台詞がある

あなた方は教えてくれた
権力体系は暴力の上に立っていると
あなた方が強制する社会を破壊したい
暴力の上に成る社会だからだ
生活に窮するのは暴力だ
何百万人もの人が飢えに苦しむのは暴力
金銭も暴力
戦争も
日々味わう死の恐怖も
それも暴力なのだ

共産主義革命を目指すアナーキストの言葉だ
しかし、21世紀の私達は知っている

共産主義国家の国々では一体どうだったのか
共産主義国家の方が、遥かに暴力の上にたっていた社会であったことを私達は知っているのだ

中国で今もなお現在進行形でおこなわれている「暴力」を私達は知っているのだ

チベットウイグルにおける暴力を知っているのだ
中国人民への監視社会の暴力を知っているのだ
香港の自由と民主主義に対する暴力を知っているのだ

なんたる皮肉だろう

公正な裁判、言論の自由、本当の民主主義
それは共産主義社会だけで実現されるという理論、理想、夢、空想
そんなものは粉々に砕け散ってしまったのだ
地に堕ちたのだ

それ程までに半世紀の時の流れは大きいのだ
この当時のままのマインドセットの団塊左翼老人達に騙されてはならない

今香港で行われていることこそ、パーマーレイドだ

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あき240

5.01920年にアメリカで実際に起った、サッコとバンゼッティ事件の裁判...

2015年3月22日
PCから投稿

1920年にアメリカで実際に起った、サッコとバンゼッティ事件の裁判を映画化した作品。この裁判はアメリカの裁判史上の汚点と言われ、当時のアメリカの人種偏見と思想弾圧がドラマチックに描かれている。
私にとっては、初めて自分でチケットを買った映画である。15才の私が何を思ってこんな暗くて政治的な映画を観ようと思ったのか解らないが、結果的にこの映画からは国家というものの恐ろしさを学ぶことができた。

検事が裁判の中で「移民であること、反国家的な思想を持っていることこそが罪であり、この裁判はそのことを裁く」と述べる場面。
いま私は、その発言の背景にある異常な社会状況を「昔のこと」と片付けられないような気がしている。

ちなみに、サッコとバンゼッティの名誉が回復したのは1977年、彼らが処刑されてから50年後のことである。

映画としての質も非常に高い。

無実の罪で最愛の家族と引き裂かれるサッコの悲しみを胸に迫る演技で表現したリカルド・クッチョーラは、1971年度カンヌ国際映画祭主演男優賞を受賞した。

さらに、ジョーン・バエズの歌う「勝利への賛歌」も、力強く美しい。当時所属していたブラスバンドで演奏した記憶がある。

バンゼッティの最後の言葉。
「自分は正義とは何かを証明するために生まれてきた。私の名前は、体制という名前の暴力に屈しなかったものとして永遠に残る」

同様に、この映画も永遠に残る名画である。

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