福田村事件のレビュー・感想・評価
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我々はこの罪を通して、何を望み、何を望むか
ドキュメンタリー作家・森達也初の劇映画監督。
オウム事件、ゴーストライター、新聞記者…。常に社会に切り込む力作ドキュメンタリーを手掛けてきた鬼才が題材に選んだのは、これまた一筋縄ではいかない。
マーティン・スコセッシがアメリカ近代史の大罪を暴いたのなら、森達也は日本近代史の大罪を暴く。この監督だからこそ…いや、この監督でしか描けない。
福田村事件。
以前からこの事件については詳しくはないが、漠然と知っていた。
その映画化。また、森達也初の劇映画。非常に見たかった作品。
101年前。関東大震災が発生し、日本中が混乱する中、ある噂が飛び交う。
この機に乗じて、朝鮮人があちこちに火を放っている。井戸に毒を流している。日本人を強/姦し、なぶり殺している。…
朝鮮人へ憎悪感情が高まる中、それは起きた。
千葉県旧福田村で、朝鮮人の薬売りの一行が福田村の自警団に虐殺された。15人の内、9人が犠牲に。
が、15人は朝鮮人ではなく、香川県から来た一行。れっきとした日本人であった…。
何故、こんな事が起きたのか…?
流言蜚語、集団心理、差別偏見…。それらが絡みに絡み合って。
ドキュメンタリー作家だけあって、残された資料や証言を基に徹底取材。事件自体が描かれるのは終盤だが、かなり忠実に描かれているようだ。
事件の概要はこうだ。
船渡しの賃金を巡って、船頭と行商団団長が揉め事。そこに自警団が加わり、村人も押し寄せ、場は一触即発の雰囲気に。
村長は場を収めようとする。駐在が本署へ確認しに行く。それまでヘンな気を起こしてはならぬ。が…
讃岐の方言が村人には何を言っているか分からない。やはり日本人じゃないのか…? 朝鮮人じゃないのか…?
“じゅうごえんごじゅっせん”と言ってみろ。“天皇陛下万歳!”と言ってみろ。言えなければ朝鮮人だ。何と馬鹿げた事…。
一行が持っていた朝鮮の扇子。たまたま朝鮮人の物売りから貰ったもの。やはり朝鮮人だ!
一度そう思い込んでしまったら他の意見など耳に入らない。それが多くに浸透する。
村人の中には擁護派もいる。もし、日本人だったらどうする?
日本人のくせに朝鮮人を庇うのか? この売国奴!
行商団も噛み付く。朝鮮人なら殺してもいいのか!
殺気立った異常な興奮感情が頂点に達し…
血は流された。
9人の中には幼い子供もいた。
無慈悲にも子供を殺す描写もある。虫けらでも殺すような、鬼か悪魔の所業。
9人とされているが、厳密には10人。殺された妊婦のお腹の中には間もなく産まれる新しい生命が…。
創作と思ったが、これも史実らしい。
駐在が本署の者と戻るも、時すでに遅かった。
殺された彼らも日本人だと知らされた時、大罪犯した連中は何を思っただろう。
そんな筈はない。あって欲しくない。今更何言う! だって奴らは、朝鮮人だったんだ…。
許し難くもある。愚かでもある。哀れでもある。
辛うじて生き残った6人。余りのショックに地元に戻ってからも、この事件について話す事は無かったという…。
昔の人は馬鹿だなぁ。そんなデマに踊らされて。
そう思う人も少なからずいるだろう。
否! 昔に限った事じゃない。事実、東日本大震災時もデマが飛び交った。
動物園から肉食動物が逃げ出した。物質が無くなるから買い込め。
放射能で汚染されて福島には住めなくなる。
しかも今はSNS社会。瞬く間に広がる。
デマに踊らされる愚行は昔も今も変わらない。
そこに、集団心理だ。皆が一丸にそうと思い込む。決め付ける。
それが常軌を逸した行動へ駆り立てる。
10年ほど前、震撼の村八分事件もあったではないか…。
デマや集団心理の他にも要因はあった。
抑え込まれた感情。
国からのお達しで、朝鮮人を見つけたら各々で対処せよ。
拘束とかではなく、殺せ!殺せ!殺せ!
が、戒厳令が敷かれ、武力行使が解かれる。
この殺気立った感情を何処に向ければ…?
そんな時、村に“朝鮮人”が…。
事件後、自警団の一人が言う。
お国の命令でやった。お国の為に、村を守る為に、同胞を守る為に。
そう言うほとんどが、軍国主義の元軍人たち…。
デマや集団心理、突発的な感情で事件が起こったとは考え難い。
それに至るまでが、前半じっくり描かれる。
村は異様不穏な雰囲気に包まれていた。
創作もあるかもしれないが、
朝鮮に行っていた村出身者が村に帰って来る。朝鮮被れが!
ハイカラな装いのその妻にも批判や陰口が。
戦争へ行っている男の妻が若い船頭と関係を。アバズレ!間男!
デモクラシー? 軍国思想こそ絶対。
自由思想のプロレタリア作家。異端者は罪。罰せよ。
デマや朝鮮人虐殺について取材する女性記者。女の分際で!
余所者、異端者、反思想…。それらに対する差別偏見に火が付き、燃え広がって…。
差別偏見は見る目を曇らせる。
いつもなら監督の演出やキャストの演技について語る所だが、今回は敢えて書かない。
“作品”になってしまうからだ。これをありのままの“事実”として受け止めたい。
勿論、演出やアンサンブル熱演は非の打ち所が無い。
井浦新演じる朝鮮帰りの男。朝鮮で日本軍人による朝鮮人虐殺を目の当たり。ここでもそれに直面する。その時、何が出来るか…?
デマや虐殺の真実を書こうとする女性記者を、編集長は待ったを掛ける。権力に下る。記者が書かずしてどうするんですか…!?
事件後、村長が言う。書かないでくれ。俺たちはずっとこの村で生きていかなければならねぇんだ。
それでも記者は、書きます。
罪滅ぼしの為に。殺された朝鮮人、無念の犠牲者たちの為に。決して、忘れてはならない為に。
事件はその後、闇に葬られたという。
遺体は利根川に流され、加害者は逮捕されたものの、大正天皇崩御と昭和天皇即位の恩赦ですぐに釈放されたという。
この報われない気持ち…。不条理極まりない気持ち…。
半世紀経った1970年代~1980年代になって、やっと事件が認知され始めたという。
被害者を悼む会、慰霊碑なども2000年代になってから。
日本近代史上に残る凄惨な事件として今は記録が明かされ、こうして映画にもなったが、それでもまだまだ知らない人は多いだろう。
忘れてはならない。知らないままでは済まされない。いつ何処でもまた起こり得る。
我々はこの“罪”を通して、何を望み、何を望むか。
理念で映画を作ってはいけないのではないか?
(ネタバレですので鑑賞後にお読み下さい)
私的にも、この映画で描かれた、関東大震災での日本人による朝鮮人虐殺はあり得ない言語道断だと深く思われています。
また、極右思想の持ち主である(と私的感じられる)差別意識に満ちた一部自民党議員の全く反省の無い差別主張やその同調者に、個人的にも知性が底を抜けていると呆れ果てています。
個人的には今さら言うまでもない、民族差別など言語道断であることを前提にして、しかしこの映画『福田村事件』は、一方で同根の問題を抱えていて評価できないと思われました。
その理由は、(一人一人の人間でなく)相手をカテゴライズ(民族ごと、あるいは一部の集団ごと)でまとめて描く傾向を、この映画に感じてしまったところにあると思われています。
この映画『福田村事件』は、関東大震災時の流言(デマ)によって日本にいた朝鮮人の人々が大虐殺される事件の派生から、被差別部落民だった沼部新助(永山瑛太さん)が率いる香川県の薬売り行商人の日本人が、千葉県の福田村で朝鮮人と疑われて虐殺された実際の事件が題材になっています。
そして、他の関東大震災での朝鮮人虐殺事件も含めたこの事件は、流言(デマ)の集団意識によって、普通の人々が差別者と豹変し集団殺人に加担してしまうところに、恐ろしさの本質があったと思われます。
ところが、この映画の福田村の朝鮮人差別による集団殺人の集団意識を煽った人物(あるいはその考え)は、かなり偏った人物達(の考え)だと映画の初めから終わりまで描かれてしまっていました。
例えば、井草貞次(柄本明さん)はかつては日本軍での自身の敵殺害を自慢していた人物でしたが、実際は軍馬係で戦闘に参加しておらず単に部隊の戦闘に参加した人から聞いた話をしていただけで、さらに貞次の息子の井草茂次(松浦祐也さん)が戦争に行っている時に、息子の嫁の井草マス(向里祐香さん)を寝取って子供を作ったことが疑われています。
井草貞次を通して、戦地で相手の殺害を自慢しているような人物は、これほど元からひどい人物だったと描かれているのです。
また、長谷川秀吉(水道橋博士さん)は、常に軍服を着てかなり狂人的な振る舞いをしていて、最後には沼部新助たち薬売り行商人を朝鮮人だと決めつけ煽り集団殺害を率先する人物として、極端に描かれています。
つまり、福田村の朝鮮人差別による集団殺人は、このような鼻から極端に偏った人物によって率いられ発生したのだ、と描かれていたのです。
もちろん例えば、常に軍服を着て(私には狂人に思えた)極端な言動をしていた長谷川秀吉を、演じた水道橋博士さんは熱演だったとは私も思われました。
しかし一方で、水道橋博士さんはれいわ新選組の参議院議員だったことからも分かるように、元々は長谷川秀吉とは真逆の考えの人だと思われます。
その水道橋博士さんが長谷川秀吉を演じる時に、(自身が嫌っている極右のカテゴライズされたステレオタイプの人物描写でなく)しっかりと多面的な1人の人間として演じられていたのかは、正直言うと鑑賞中、甚だ疑問でした。
千葉日日新聞社の記者の恩田楓(木竜麻生さん)は、「悪い朝鮮人もいれば、良い朝鮮人もいる。悪い日本人もいれば良い日本人もいる。」との話をしています。そしてこのことは正しい面があると思われます。
しかし本当は、
<人間には悪い面もあれば良い面もある。そのどちらかを肥大化させて民族などの塊で良いも悪いも差別的に判断してはいけないのだ>
が人間理解の本質だと思われています。
関東大震災時での流言(デマ)による日本人による朝鮮人大虐殺は、良い面も悪い面も併せ持つ普通の人々(人間)が、流言(デマ)によって民族などのカテゴライズ認識を肥大化させ、相手を集団や塊で見て差別断罪するところに問題の本質があると思われます。
しかしこの映画『福田村事件』では、井草貞次や長谷川秀吉などに象徴させた偏った差別主義者やその考えを持った(普通でない)人達が、朝鮮人大虐殺を起こさせたのだ、との描き方におおよそなっています。
そして、彼らは偏った差別主義者であるとして、集団や塊で見て断罪する内容に根底ではなっていると思われました。
つまり、朝鮮人大虐殺で起こったカテゴライズ民族差別とコインの裏表である、井草貞次や長谷川秀吉などの描き方だったと思われるのです。
朝鮮人の人々は、残念ながらこの映画では具体的な多面性ある人物としては登場しませんでした。
同様に、井草貞次や長谷川秀吉らの人物も、良い面も悪い面も併せ持つ普通の人々(つまり人間)として描かれていたとは思えませんでした。
朝鮮人にしろ日本人にしろ、右派的考えの人物にしろ左派的考えの人物にしろ、1人1人を(カテゴライズの塊でなく)名前をそれぞれ持った人物、つまり良い面も悪い面も併せ持った多面的な人間として、描くのが映画の役割とも思われています。
しかしこの作品は残念ながら、そんな映画での表現において真逆の描き方、(多面的な人間でなく)カテゴライズ極端な塊表現になってしまっている、と私には残念ながら思われてしまいました。
映画『福田村事件』は、(おかしな極端な人物達が極端な差別殺人を犯したとの、コイン裏表の、カテゴライズ差別の描き方でない)全く私達と同じような多面的な普通の人々が、時にこのように極端化しひどいことを犯してしまう描き方である必要があったと思われました。
理念断罪先行で、多面的な1人1人の人間の描かれ方になっていなかったことに、私的には残念に思われ、今回の採点となりました。
(ただ、俳優の皆さんの演技はさすがと思われる場面も多く、個人的には、澤田静子を演じた田中麗奈さんと田中倉蔵を演じた東出昌大さんが特に印象に残りました。)
読み方が違うだけ
冒頭から軍国主義や田舎独特の空気感を感じつつ、生臭い人間模様が群像劇のように描かれていて笑うに笑えない、その中の人の愚かさとか滑稽さとか、そういうものを感じながら見ていた。
行商一行のストーリーが差別を受けながらもみんなで仲良く、逞しく生きていく様子を楽しく描いていて、映画全体にポジティブな風味を効かせていた。
お腹の中にいる「望」が彼らの希望として育っていた。
ここからのギャップがこの事件の悲惨さを大いに引き立てている。
漢字は同じ、読み方が違うだけ。
人間もこれ。どんな人種でもみんな同じ人間。文化や言葉が違うだけ。良い人もいれば悪い人もいる。
集団ヒステリーに矮小化。
観てから時間がたって、どうもすっきりしない。ある日、散歩をしていて気が付いた。虐殺のきっかけになる最初のひと振りをするのが、旦那が東京に行って朝鮮人反乱のうわさを聞いて、憔悴した主婦。それも、エキストラに毛の生えたような新人と思われる役者。シベリア出兵、三一事件等、徴兵で大陸に連れていかれて、女子供まで、殺戮してきた徴兵されたことのある男たちが中心となって殺戮が始まらなくてはいけなかったと思う。大陸で経験したことを画にしないでも、その元兵隊の話があればいいだろう。そこに、優れた俳優をつかえば、よかったのでは? 嫁とまぐわる爺さんとか、リベラル気取りの夫婦やら、舟の上のセックスやら、亀戸事件やら、散漫すぎるし、説明セリフオンパレードで2時間ドラマなみで残念。名のある俳優はいいが、新人俳優のセリフ芝居の間のなさ、しらける。千葉県も大震災の影響はあったのです、家々の瓦のきれいなこと。演出の不在、シナリオのていたらく。
本当の朝鮮人虐殺を描いた映画を望む。
恐いのは、鮮人ではなく煽人
評価が高かったものの観そこねていたため、再上映で鑑賞。
残念ながら、映画作品としては刺さらず。
137分とやや長尺ながら、その大半に必要性を感じなかった。
静子が鮮人と疑われたり、倉蔵が間男故に信用されないなどは蛮行を止められなかったことに活きていた。
だが、口火を切ったトミを動かしたのは、台詞で触れただけの虐殺の流言である。
悲劇を描くには、“人”と“暮らし”を描いて実在感を与えなくてはならないのは分かる。
しかし、執拗な寝取り寝取られだの、貞次の隠し事だの、あんなに尺を使って描くようなものだろうか。
智一のトラウマ含め、すべて事実なのであればまだマシだが、もしそうでなければ過剰演出。
脚色しすぎては『史実』の重みが薄れるだけだ。
だったら時代背景の深堀りや、あるいは長谷川や村長の思想を見せるべきでは。
流言飛語の恐さ、偏見や差別の愚かさ、報道の意義など普遍的なテーマは理解する。
事件自体も非常に悲惨なものだったと思う。
ドラマ的にせず、焦点を絞って、虐殺の描写はもっとエグくしなければ題材にした意味がない。
個人的には事件の混乱も「バカだなぁ」としか思わないが、そう思える自分に安心する。
新助が訴えたように、“朝鮮人かどうか”を論じている時点でズレているのだ。
真実にどこまで迫ってるのか疑問?未曾有の災害と1世紀前の凄惨な出来事の関連性が今ひとつ伝わって来ない
真実にどこまで迫ってるのか疑問だ、実際に起こった凄惨な事件はこんなに軽いものでは無いかと思う。
約1世紀前に起こった凄惨な出来事、あまり語られて来なかった悲惨な歴史を紐解いた作品という事で当時どんな経緯で民衆が狂気の沙汰を行ったのか、その深層を知りたかった。
しかし、映画の中で表現された関東大震災からは民衆が狂気に走るほどの緊迫感は感じられず、なぜ人々が部落出身の者を襲うに至ったか伝わって来なかった。
日本統治時代の朝鮮では独立運動が勃興しており、本事件の4年前の1919年(大正8年)に起きた三・一運動では、デモが朝鮮全土に広がり朝鮮人は日本の言うことを聞かない「不逞の輩」として扱われていた事や部落民への差別などの背景があまり描かれていない、また行商人一行の方言と福田村の訛りの違いから朝鮮人と決めつけるに至った言葉使いなども考証に則しているのか不明瞭でこの作品がどこまで真実の事件に迫った内容なのかもわからない。
実際殺害を行う演技も迫真とは言えず全体的に芝居がかった演技な印象。朝鮮人と間違えて殺害を行ってしまった福田村住民への情状酌量感、その実は関東大震災の流言飛語で実際に殺害された朝鮮人・中国人・社会主義者などが大勢いたという事実はラストに流れる文章のみで、被差別部落民への根深い偏見なども合わせ当時の狂気の状況とは程遠いのでは無いかと思わざるを得ない作品かと思った。
僕は『田中村第◯小学校』出身でーす♥
生まれは小岩だが、育ちは田中村である。福田村の友達も沢山いた。しかし、こんな話があるのは知らなかった。福田村の村長が民主主義を唱える革新的な村長と描かれているが、僕の時代の田中村、福田村、小金村、馬橋村はそんな行政だったろうか? そして、僕の時代の住民の気質もどうであったか怪しいモノダ。
なにしろ、房総族でしたから。
南葛飾郡 大島町の流言飛語の話は本当である。父方の祖父が自警団で駆り出されたが、友人が在日◯◯人だったので、断ったと曰わっていた。
「三・◯運動」に於ける「提◯◯教会事件」は「◯◯博文公」暗殺者の「◯重根」の謀殺と同様に今の韓◯人に於いても殉死者扱いされている事を日本人は知らねばならない。
我が親父は言っていた。
『”じんむ、すいぜい、あんねい
いとく、こうしょう、こうあん
こうれい、こうげん
かいか、すじん”くらいは言えないと日本人じゃないからな』って。
そんな流言飛語で僕は必死になって覚えた。本当だよー。
しかし、日本の軍国主義が育つのは、この後の事。
やがて、狂乱の昭和へと突入する。
来年は昭和100年。昭和が終わったとは思えない。
しかし、役者の本当の性分が良く活かされた、良いCASTINGになっていると思う。
『沈黙 立ち上がる慰安婦』を見るべし。
自分が正しいと思ったことが、真に正しいとは限らない。
自分が正しいと思ったことが真に正しいとは限らないと、常に心の片隅に持っていないといけないと感じた。自分の器を少しでも大きくできるように生きていきたい。俯瞰して物ごとを見ることも大切。
じゅうごえんごじっせんって言ってみろ
1923年(大正12)9月1日、関東大震災が発生。
混乱する人々の間では朝鮮人の野蛮さを広める流言飛語が飛び交っていた。
朝鮮で教師をしていた澤田は、妻と共に故郷の千葉県福田村へ帰ってくる。
福田村でも混乱は広まっていたが、そこへ香川から薬の行商団がやってきたことで、阿鼻叫喚の悲劇が起きてしまう。
2023年最後の映画になります。
クリスマスにものすごく久しぶりに母親と地元で映画を観てきました。
この映画は絶対に地元の映画館で年内に観ておくべき作品だった。
というのも、私はこの福田村のあった隣の市に住んでいる。
関東大震災から100年、この映画が作られてプロモーションが行われている中でほぼ初めて事件の概要を知った。
近くの市に住んでいるのに、なんなら福田村のあった場所へ行ったこともあったのに、なんとなく名前しか聞いたことがなかった。
恥ずかしく、そして悔しかった。
だからこそこの映画を年内に観ることができて本当に良かったと思う。
気持ち悪い。ひたすら気持ち悪い。
時代だから……では絶対に片付けられない。
マスコミの問題や政府の統制の問題も勿論あるだろうが、「村八分」という言葉に代表されるような、閉鎖的で独特のコミュニティと結束感に吐き気が止まらない。
村民同士が監視し合い、そこに異端分子が現れたり、秩序の枠をはみ出たりするとすぐに排除を始める。
そこに軍国化のスパイスも加わって、勢いはさらに増していく。
止める者いたが、そんな力ではとても手に負えない感じがリアルで恐ろしかった。
惨劇までの顛末をゆっくりじっくり描いているのも印象的だった。
行商団と自警団が衝突してしまったあの場まで、ジワジワとことが進んでいく。
朝鮮あめを買ったり妊婦がいたり死亡フラグがどんどん立っていくのも辛い。
男の子だったらのぞむ、女の子だったらのぞみ、ええ名じゃ。
そしてあの惨劇、村民たちの憎しみの目線や竹槍を刺した時のブスっという音、色々と生々しく衝撃的であった。
キャストも一流。
当時あれほど信念を持った記者がいたかどうかは分からないが、女性記者役の木竜麻生は素晴らしかった。
それとなんと言っても、あの役を引き受けた東出昌大。
彼の演技は昔から色々言われているけれど、日本映画に欠かせない名優になったと個人的には思う。
日本人にしか作れない映画だと思う。
勿論、関東大震災による混乱期の朝鮮人虐殺が根底にはあるが、この事件はさらに勘違いから同じ日本人を殺してしまったという悲劇を描く。
そこで出てくる、だったら朝鮮人は殺していいのかという問い、被害者の彼らが被差別部落出身者であったということも含め、到底一言では語りきれない。
そして、我々はこの事件に関して実際に目撃したわけではない。
ここで犯人探しをしてしまっては、流言飛語に惑わされて福田村事件を起こした彼らと同じことだ。
現代でも似たようなことは起きるかもしれない。
混乱の時こそ冷静にあるべきだと深く考えさせられた
韓国語勉強中だから澤田が朝鮮で言った言葉が分かれば良かったのだが、それは少し残念。
良いものを観た。
偏愛と無知により暴走する村社会のお話。
▼明確な主人公がいない
主人公キャラを強いて挙げるなら、朝鮮から戻ってきた男、未亡人の女、行商のリーダーのどれかが主人公なのだろうけど、明確に誰というのがいないのが印象的。
その誰を主人公に据えてもいいぐらい、全キャラの存在感が際立っているし、むしろ明確な主人公がいないからこそ、本当の主人公である村の空気というか、当時の日本の雰囲気をより強く感じることができる。
その感じは多面的な取材をしていくドキュメンタリーの印象に近いものがあって、森さんが監督を務めた大きな意義はここにある気がした。
▼村人のディティールが生々しい
差別上等だぜ!という村人や、国を守るためなら何やってもいい的な暴走軍人、僕も国のために役に立つもん!な若者の感じをとにかく痛々しく感じさせる演技がすごい。
この手の伝記ものの映画はなかなか商業的な成功の担保が難しい背景から、どうしても再現ドラマ感が否めない作品が目立ってしまう中、キャラ造形、照明、シチュエーション形成の随所に本気度を感じた。
特にキャスティングの説得力がハンパない。いわゆる日本人が日本人をディスる作品に出ること自体がリスクにもなりうるなか、これだけの俳優陣が揃ったのは、キャスティングする側もされる側も相当な覚悟があったと思う。
特に柄本明さんのいろりに手をかけた、小指の演技がすごかった。
田中麗奈さんの色気がありながらも、うざったい愛嬌のある感じとか、コムアイさんの幸が薄そうなエロい感じとか、東出さんの身を削りまくってるキャラ設定の演技等々、役者陣が光りまくってる。
村の妻たちの群像劇の生々しさももの凄くて、もののけ姫の女衆の実写版を観ているような気にもなったし、国のために、村のために、自分の正しさのために躍起になる男衆の必死さもよく出ていた。
薄気味悪い善良な雰囲気をまとっている村長もめちゃくちゃ良い。
シナリオの中では悪役という存在のキャラの中にも、人間性や妙な愛嬌を感じさせる工夫があって、それが異様な生々しさを生んでいる気がする。
▼善悪のバランスが絶妙
抑圧された側、意図せず加担してしまった側の心情を描くのは当然だけど、
差別をしている側、暴力を振るう側が圧倒的な悪として描かれるとそれはそれで偏った表現になってしまうところを、
そうしてしまった背景には、国を守りたかった正義感があったからだというところをしっかり強調していて、うまくバランスがとられている。
しかも、ド右思想のキャラを水道橋博士が迫真で演じていること自体のカウンターパンチがもの凄い。
▼朝鮮ヘイトの根幹にあった思い
震災時の朝鮮人ヘイトによるデマの流布に至った背景に、当時の村人の中に「いつも虐めているから、いつ復讐されるかわからない」という意識があった描写が衝撃的だった。
この描写について裏が取れていて事実であるなら、常日頃から加害者意識と、その後ろめたさを自発的に感じていたということだし、かなり踏み込んだ表現だと思った。
日本人の徹底的な異端排除の精神を煎じて煮詰めたような作品である、マーティンスコセッシ監督の『沈黙 -サイレンス-』よりも、より具体的に昔の日本人の異様性を描いている気がした。
劇中では差別を正当化する理由として「国や村を守りたかった」としていたが、
日本人が「日本人の血」を守ることに固執するのは、神話に基づく天皇制の影響もあるのかもしれないけど、血を汚されたくない、文化を侵されたくないという意識からくるものなのかもなぁと思った。
そのジャパニーズ精神はどこか美しくもあるし、イカれてもいるという修羅さを、和太鼓に込めまくった鈴木慶一氏の音楽もヤバすぎた。
(以下ネタバレあり)
▼差別の根幹
江戸時代の身分制度で、商人以下の身分をえたひにんと呼び、住む場所を限定されたりと差別されていた層があり(現在も地続きだけど…)、
その中には外国から渡ってきた人々も含まれているだろうし、抑圧されてきた人たち同士で結束感のあるコミュニティを形成するのは当然のことだと思う。
そうすると必然的に混血の日本人が生まれてくるだろうし、そのことを本人達も、社会も知っていたからこそ生まれる差別なんだろう。
劇中の行商のリーダーが朝鮮飴(엿)売りに情けをかけたり、事件渦中の騒動で、「日本人なら殺さない、外国人は当然殺してOK」という論調になる集団にブチギレる&扇子出すのは、そりゃそうだよなぁと思う。
この手の軋轢は今も普通にあるし、劇中の雰囲気は今の日本にもあるどころか、今後より強まっていく予感さえある。
入管での難民強制送還の実態や、難民受け入れの許容ライン設定が異常に厳しいというような事実を見ると、現代の生活のすぐ近くで福田村的な空気が漂っていることがよくわかる。
2023年・最大の問題作で話題作で傑作
この映画が完成して私たちに届けられたことに感謝したいと思います。
この映画に携わった多くの映画人に敬意を表します。
見たくない真実であるし、知らんぷりを決め込みたい真実である。
関東大震災(1923年9月1日)の混乱と恐怖から、
千葉県福田村の村民により罪もない薬売りたち9名
福田村自警団によって(お腹の子を入れれば10名)が殺された事件を
克明に描いた実録的映画です。
重たい暗い内容ですが、大正の時代考証や衣装・美術・撮影などの
クオリティーが高い上に俳優たちの演技並びに意気込みも素晴らしく、
この映画を全員で成功させようとの意欲がまざまざと見えます。
(映画的な面白さの点でも申し分ありません)
薬売りの一団(リーダーは永山瑛太)は、讃岐(香川県)から
遠路を旅して置薬の販売のしながら旅をしていたが、
讃岐弁の訛りが強くて、福田村の人々には朝鮮語と判別が付かなかった
それもこの悲劇の一因ではなかったかとも言われています。
朝鮮人疑惑がかけられてからの後半40〜50分は
泣きながら観ていました。
涙もろいタチではないので、畳み掛ける演出が優れていたのでしょう。
永山瑛太が「朝鮮人なら殺してもいいんか?」と、
叫ぶシーン。
ここからは脚本と演出とせき立てるような太鼓の音に
私はすっかり理性を失ったのだと思います。
恐怖に駆られた集団(200人以上)が、竹槍で突き刺したり、
瑛太に至っては、出稼ぎに出た夫の安否を【朝鮮人の仕業】と
勝手に思い込んだ、赤子を背中に括り付けた若い女トミに
脳天を鎌(かま)でかち割られる。
女の無表情が本当に怖い。
自警団は逃げ惑う薬売りを追いかけ回し、鉄砲で撃ち殺し、
利根川に追い詰めて死体を沈めて流す。
そこからは、ただただ泣きながら観ていました。
クライマックスは針金で身体をグルグル撒きに縛られて、
手首をキツく結えられた薬屋の生き残りの5名が、
御詠歌なのか語りとも歌ともつかぬ言葉を唱和する。
これは日本人以外には出来ぬことだし、
流石に自警団も我にかえる、
そこに証明書が本物の知らせが警察から入る。
澤田夫妻が「ごめんね、ごめんね」と泣きながら縄を解く姿。
そして病院に運ばれた仲間のことを薬屋の少年が、
みんな名前がある。生まれてくる子はのぞむか?のぞみだった・・・
と言いながら、他の9名の名前を語るシーン。
永山瑛太の演技は見事だった。
被差別部落の民である薬屋たち。
穢多非人と朝鮮人の地位・・・どちらが上でどちらが下か?
知りませんが、忌み嫌われる被差別部落民の鬱屈した心情を
豊かに変わる表情ひとつで表現。
瑛太には華やかさと明るさがあった。
「朝鮮人なら殺してもいいんか‼️」が、
ハイライトである位に際立っていました。
実際にそんな火に油を注ぐ言葉を、部落とバレなように
用心に用心を重ねていた永山瑛太が言うのか?という
疑問も持ちます。
しかし演出としては優れていた。
船渡し人夫役の東出昌大。
小舟の中で田中麗奈を抱く赤銅色に焼けた背中。
労働で鍛えた男のフェロモンに目がクラクラ、
そして一番の嫌われ役・福田村自警団の分団長で惨劇を
誰よりも先導した男の狡さや嫌らしさを嬉々として熱演した
水道橋博士。
ややマゾっ気のある(?)水道橋博士にしか出来ない
嫌われ役でした。
主役の澤田(井浦新)は、朝鮮で日本軍の蛮行を目撃したPTSDで
不能になり妻(田中麗奈)を抱けない男。
その澤田が妻に「あなたはいつも見てるだけね!!」と
言われて遂に硬いの殻を破る。
しかし薬屋たちを朝鮮人と思い込み身分証の照合の僅かな
時間も待てずに凶行は行われてしまう。
時代は今から100年前、
ラジオ放送が始まったのは1925年(福田村事件の2年後)、
SNSもない時代、
関東大震災の情報は、東京から千葉へ戻ってきた人たちの口コミや、
千葉日々などや大手新聞社の記事から伝わったと思われる。
朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ・・・などの噂(デマ)は広がった。
翻って思うに、
東日本大震災(2011年)の際、アメリカは原発の半径80キロ圏内の
米国人に避難勧告を出した。
私の記憶では多くの外国人が先を急いで出国した。
これは今となっては大袈裟に思えるが、
(結果的は国外避難は必要なかったが、)
当時の日本国の混乱を思うとアメリカ政府の対応は
非常時には自国民を守る危機管理能力として適切な判断だったと思う。
私は米国人が続々と国外脱出する成田空港のニュース映像をみて、
日本の放射能汚染は政府の発表する放射線量数値が本当に正しいのか?
疑心暗鬼に駆られたものだ。
思えばあの時ほどNHK解説者の解説や各社コメンテーターの言葉を
真剣に聞いた経験はない。
それだけ、情報は命綱なのだ。
(それが偽情報だったら?ことは重大だ)
関東大震災では、穴を掘って死体を埋めていたとの記事を読んだ。
死体が山積みされ埋められる光景を目撃した人からの伝聞を聞けば、
その恐ろしさに畏れ慄くのが普通である。
3・11の記憶が頭にこびり付き【津波に放射能汚染のダブルパンチ】
忘れようにも忘れられない、多くの方々が亡くなった。
「千葉日々」と言う名前の新聞は堂々と報じた。
《朝鮮人による大暴動発生》
《朝鮮人の婦女暴行・飲料水に毒・略奪》の大文字見出し、
日本国民がそれを信じるのは当然のことだ。
そして更に恐ろしいのは震災当日と翌日に警察から
「朝鮮人に気をつけよ」
「夜襲がある」などと、官の側からの流言飛語を撒き散らしたのが、
村人の不安を煽った事実。
実際にこの機に乗じて朝鮮人と思想犯及び聾唖者が6000人も死亡した。
この映画が全て真実だとは言いません。
映画的演出もフィクションも含まれているでしょう。
骨のある日本映画を久しぶりに見せて頂きました。
「F ukushima50」(2020年)以来です。
「野火」「日本のいちばん長い日」「トラ・トラ・トラ」
日本人なら自分が生きている国を知るために、
一度は観ておいても損はないと思います。
人間の残酷さ
この時代なら、当たり前なんか?
朝鮮人と部落の人は人としてあらず。
思い込みの怖さ 正義とは何?
ピェール瀧と東出が久しぶりだ。
長谷川みたいな人はどこにもいてる。
胎児は、国民ではないんだ?
災害に乗じてややこしい人を消すは
過激な元作家の知事か言ってました。
恩赦になるんだ?
今年見た邦画の中で最高過ぎる
文句無しの100点満点💯
今年見た邦画の中で素晴らしい作品でした。
関東大震災後、混乱した世の中において人々は誰の情報を信じて良いのやら、当時のマスコミによる過ったデマが拡散されたことにより更なる人に対する恐怖と偏見が生まれます。これが、どんなに恐ろしいことか。間違った情報に踊らされた末に待っているのは情報不足が招いた虐殺でした。非常に痛ましく、これが真実に基づくと知り、色々なことを福田村事件の映画を通し学習させて頂きました。
この映画は、ドキュメンタリーでもありますがわたしはヒューマンホラーを題材としたヒトコワにも感じてしまいました。田中麗奈さんが演じる元はお嬢様育ちの奥様も世間体を気にしない、日傘を指し暑いわ〜と何事もなかったかのように場の空気を変えてしまう、当に適材適所なキャスティングでした。
※9月10 日に末日で閉館となった京都みなみ会館様で鑑賞しました。
誰が悪いとは言えない
関東大震災中に劇中で描かれていたような事件があったことを知らなかった。
悲惨な結末を迎えたが、誰が悪いとは言えないと感じた。
大切なことは、自分で考え、情報を精査する力だと思った。
それはいつの時代も変わらない。
だが、時代的に自分から得られる情報には限界があり、デマを流され、戦時中の思想統制が行われ、さらに震災が起きたという混乱の最中であれば集団ヒステリーは大いに起こり得る。
ましてやそれが村という閉鎖的な空間で起こり、村に住む人々は今よりも選択の自由がない。
村長の言葉でもあったように、当時はその地で生まれ育ち、一生を終えるという考えが根強かった。
だからこそ、村の集団の多数派に抗うことは難しい。もし抗えば村の中での自分の立ち位置も危うくなるかもしれない。
村長も終盤までは自分の「意思や考え」を貫き通す姿勢を持っていたが、最後には多数派に抗えなかった。
これがたった100年前のこととは信じ難い。
唯一の希望は静子の存在であろうか。彼女の言動には賛否あると思うが、彼女の自由な生き方や発想は村という凝り固まった場所の解放であるかのように感じた。
暴走しない自信はない
いつもの映画館①で
月曜日に月を観たばかりだ
最近のハイペースでスタンプが6個たまり
本作鑑賞はロハ
今まではカードにスタンプを捺してもらうという
アナログスタイルで気に入っていたのだが
これからは年会費を払って
鑑賞ポイントはデジタル管理になるようだ
で映画は満点だ
起承転結の骨組がしっかりした
極めて出来のよいエンターテインメントだ
喜怒哀楽 幸福 性愛 慈愛 嫉妬 侮蔑 差別 憐憫
人生の要素が全て描かれている
過去の事件を題材にしつつ
現代社会に対して痛烈なメッセージをぶつけている
東出とかピエールとか訳あり役者陣の起用が嬉しい
あと水道橋博士も
反ポリコレの気骨というか慈愛すら感じる
出演陣は誰かに寄り掛からずに
自分の足でしっかり立てる人たちばかりだ
柄本明の息子の嫁を演じた女優の色気にはやられた
いったい誰なんだあれは
女性記者は東京新聞の望月記者がモデルではないか
コムアイとか田中麗奈 女性の強さというかしたたかさ
それに比べて男の愚かなこと
自分が生まれた村にも似たような過去があったのではと錯覚
田中麗奈が村を歩くところ
オラが初めて妻を連れ帰ったときを想起
オラは井浦新的な立ち位置なのだが
一方であんな騒動に直面してしまったら暴走しない自信はない
オラが感じたこの映画のキーワードやキーアイテム
整理できないので羅列
・差別的な感情
・排除の論理
・かつての農村の風俗
・白磁の指輪と豆腐
・扇子
・被差別部落
・お上からの通達
・流言飛語
・それぞれの名前
・水平社の決起文
これから人口減少に向かう日本
外国人を受け入れない覚悟はない きっと長いものには巻かれる
留学生 技能実習生 特定技能といった在留資格の外国人が増える
そんな世の中でこういう忌まわしい過去を思い出すのは重要だ
(ここから映画と無関係)
終了して昼の2時 雨の予報だったが何とか天気は持ちこたえて
県庁前のベンチで缶ビール2本とポテチコンソメ
アルコール3.5%を試したら確かにいつもよりダメージ小
駅前のはなまるうどんでカレーライスとコロッケ
だったら松屋でもよかったかなと
家に帰ったのが夕方5時 直後に雨が降り出した
今日もいい休みだった
燃えあがる女たちの情念
森達也監督がこの事件を偶然知ったのは2000年とのこと。わたしが全然知らなかったのは当たり前。香川(讃岐)から全国各地に行商して廻る一団は「穢多(被差別部落出身者)とわかったら、薬を買って貰えなくなる」という瑛太のセリフ。これは映画の設定に過ぎないと思っていたら事実そのもので、犠牲者の遺族や生き残った証人は表沙汰になるのを嫌ったため、長年埋もれていた事件だと後で知った。村の自警団の中心となる在郷軍人たちは実刑判決となるが、恩赦で刑期半ばの1年ほどで釈放されたのも事実。この映画であきらかにフィクションの登場人物は半島で教師をしていたデモクラシー思想の澤田(井浦新)とその妻、静子(田中麗奈)と女性新聞記者役の木竜麻生。関東大震災の混乱のなか甘粕大尉に殺された大杉栄と伊藤野枝の事件はこの事件の10日後だが、水道橋博士が演じる鬼気迫る病的キャラと濃いえんじ色の軍服に甘粕大尉を想起。在郷軍人会なんてアメリカではポピュラーだが日本にはないと思っていた。循環式浴槽で増殖するレジオネラ菌による肺炎の別名である在郷軍人病は初めて発見されたきっかけはアメリカの退役軍人の集会で集団発生しだことから付けられた病名。水道橋博士のこの演技が決まらないとこの映画のバックボーンが決まらないので、よくガンバった。
そして、行商の親方の頭を斧で叩き割り、虐殺事件の口火を切った若い女役。MIOKOが韓国が世界各地に設置している従軍慰安婦の少女像にソックリだったのにはドキリとした。
この監督、只者ではない。
この映画のレイティングはPG12だが、それ以上にエロく感じた。田中麗奈が情動のままに船頭(東出昌大)に迫り、舟の上で自らズロースを脱ぎ捨てる。それを岸から見ている夫。白磁の結婚指輪を豆腐に忍ばせて置くコムアイ。シベリアに抑留され白木の箱になって帰って来た夫の遺骨を抱えた女は船頭ととっくに出来ていて、寂しかったからどうしょうもなかったときっぱり言い放つ。夫が出征している間に義父の子供を身籠った女(向里祐香)も積極的。乳房を露にして義父(柄本明)の亡骸を抱き寄せた。これらの女たちの情念に私は伊藤野枝のそれの激しさを見たような気がした。
松浦祐也も目立たないが実に達者である。
人気俳優も皆達者だったけど、水道橋博士と松浦祐也がいい仕事。
アメ売りの娘と行商団の交流もあざとい演出。木竜麻生が彼女の手を取り、自警団をやり過ごそうとする場面での撲殺シーンはエモ過ぎた。アメを買ってくれた一行に丁寧に御辞儀していた娘の清らかで素直な様は白眉だった。
行商に出発する少年にお守りを渡す橋の上の少女。御守りの中身は単なる御守りではなかったのも実に憎い。
本所での火災旋風では何万もの命が奪われた。火災で生じた竜巻に吸い込まれて飛ばされる人間を見た人の証言も物凄くショックだったが、この映画の旋風もすさまじいものだった。
芸能界は在日朝鮮人がたくさんいるのよと当事者ご本人の口から聞いたことがある。この映画に出演している俳優の中で公表している人はいないと思うが、演じている俳優が互いに意識することはないのだろうか?そんなことも考えながら観た。最近じゃ政界もそうかもしれません。つい、疑心暗鬼になってしまいます。
千葉日日新聞の女性記者役の木竜麻生(新潟新発田市出身の美人)は生粋の日本人だと思うが、彼女の甘ったるい感じはなんだかこの映画の緊張感を少しユルくしてしまったような気がした。上司役のピエール瀧との対比はよかったけど、私は大好きな黒木華がよかったなぁと思ってしまった。
映画の感想は人それぞれで、そんなことを思いながら観ていた映画ファンもいだということで🙏
高評価ばかりなのが怖い
香川県在住。森達也の映画、本が結構好き。
制作を知った公開2年くらい前から気になっていた。
予告を観たとき「テレビの再現Vみたいなクオリティになっているのでは…」と大いに不安になった。
しかし、事前に武田砂鉄のラジオでの監督インタビュー、水道橋博士と町山智浩の監督インタビュー、好きな町山智浩さんの紹介情報などでテンションを上げ、鑑賞。
感想は、「テレビの再現Vなら良かった」である。
この歴史的事実、朝鮮人虐殺の事実にスポットが当たる事には大いに意義がある。
だが、映画の出来は最低。思想ではなくクオリティの話。日本映画の悪いところが詰め込まれている。
さらに、SNSでは絶賛の嵐、町山さんや宇多丸さんも絶賛。柳下毅一郎だけは映画の出来には直接触れずに、脚本家の色が強く出ていると言うに留めていた。(ドミューン出演時。この時その場に水道橋博士も居たので言いづらかったのかもしれない)
批判レビューにはイチャモンコメントまで付いている。まるで言論封殺。
この映画を一ミリでも批判してはいけない雰囲気が漂っている。
それはこの事件が内包する「集団心理」「言論封殺」と完全に印象が重なる。
(ただ、この事については、東京都の対応など朝鮮人虐殺がなかった事にされそうな風潮の中、この映画を批判する事でそれに加速がかかってしまうのではないか…という心配から、皆あえて言わないのでは…という事も考えられる)
繰り返すが、この歴史的事実をピックアップする事は意義があるし、私は森達也のドキュメンタリーや著作、考えにかなり共感している贔屓者だ。
しかし映画のクオリティは酷い。どう酷いかは他の低評価レビューを見ると概ね同じだ。
何故こんなに出来が悪くなってしまったのか。
柳下毅一郎さんのコメントからいろいろ考えてみた。
まず、脚本が最大の要因である事は間違いないだろう。(批判の多い説明的なセリフ…エロシーンなど)
そして、森達也監督は役者に自由にやらせて、演出をほとんどしていなかったのだと推察する。脚本を読み、役者が各々考えて作ってきたのだろうその演技は、全体の統一や自然さからはかけ離れていった。監督は役者に自由にやらせ、それをドキュメンタリー撮影時と同じように、「目の前で起こる事」を忠実に追いかけて拾っていったのだと思う。
結果、脚本に引っ張られて出てきた役者の自意識や過剰さ、クセ、統一性のなさなどがそのままカメラに納められてしまった。監督の目の前で起こっているのは役者の「演技」であり、それは舞台を撮影しているようなものになってしまったのだ。ドキュメンタリー監督としての性質が物語作品では裏目に出たのだと思う。
映画に映し出される演技は、役者への演技の付け方だけで決まるのではない。優れた監督は役者の自意識を編集でコントロールすることができる。ほんの一例だが、スコセッシの「沈黙」では、窪塚の癖のある演技や前のめりな自意識を、編集と演出でここまでコントロールできるのか…と感心した。
インタビューなどの発言から、森達也監督は、脚本も、役者の演技も、往々にして受け身だったのではないかと推察する。しかし監督とは全体をコントロールしするものではないのか。だから映画は「〇〇監督作品」と冠するのではないのか。
もう一度言うと、この事件にスポットを当てた事には大きな価値がある。
ならば、この事件を調査したドキュメンタリーを作るか、いっそテレビの再現ドラマのように、事件の概要を丁寧に説明するくらいが良かった。アンビリバボーなどの再現ドラマは面白い。そのように作れば良かったのだ。
コムアイなど役者は良かった。彼らの演技が不味く見えるのは、脚本家と監督の責任である。
舞台と映画は違う。映画は編集によってまずいセリフも、下手な演技もうまく処理できてしまうのだ。それが劇映画の醍醐味だ。そして、森達也はドキュメンタリーにおいて「映画は嘘をつく」という事にこれ以上ないくらい自覚的であったはずだ。しかし、大嘘をつかねばならない劇映画では上手く行っていないのだ。
今回の劇映画の下手さ=監督の「嘘のつけなさ」はやはり森達也はドキュメンタリー監督として優れているのでは…などと思った。
沈黙
この作品が上映されると聞いた時に初めて福田村事件というものを知りました。関東大震災後に朝鮮人が差別されていた歴史があったという事は歴史の授業でチラッと習いましたが、日本人同士でも疑われて殺されたなんて残虐な事件があったというのはかなり衝撃的でした。
戦争で死ぬことが名誉と言われることがまだ普通だった1923年が舞台になっています。今考えるとやはり戦争はおかしい事ですし、死ぬ事が素晴らしいなんて全く思えません。時代が時代なのでこれが普通だったと思うとそこでまず恐怖を覚えてしまいます。
前半ではゆっくり村の描写や当時の過ごし方、人々の関係性をじっくり描いていきます。だいぶスローなのでかったるいと思うところはちょくちょくありましたが、そこは役者陣のパワーでなんとかカバーしていたなと思いました。
朝鮮人を差別していたり、主義者を殺す描写を挟み出したあたりから不穏な雰囲気が漂っていき、それが終盤の事件の大爆発に繋がっていったなと思いました。
福田村で詰め寄られるシーン、本当に怖かったです。10人そこらに村中の人々が寄ってたかって言い詰め寄りますし、確認するまで待てと言ったって無駄な正義感が働いて何度も何度も暴言を吐いては威嚇をする、同じ人間でもやってはいけないラインを余裕で越えてしまっていて、1人の行動で村人のリミッターがぶっ壊れて商人たちを襲い始める映像が静かに、そして獰猛なくらいに激しくなっていく様子が末恐ろしかったです。
邦画洋画問わず、子供を殺す描写ってあまり多くないんですが、直接的には見せずとも子供を斬り殺すシーンがあったのは衝撃的でした。リンチの描写も無抵抗な商人をこれでもかと滅多刺しにして川に流したり、積んだりと人扱いしていないのが見て取れました。
最終的に日本人という事が証明された時も、反省の弁なんて一切言わず、お国のために村のためにとほざくだけなのも拍車をかけてムカつきました。話も聞かずに自分たち優先で行動したのにその言い分はなんだと、殺戮をあれだけ起こしておいてあんな態度なんて信じられないです。とても辛かったです。
全体的に寄り道が多かったのが今作の残念なところだと思います。3組ほどの描写を見せつつも、それが最終的に事件のパートへ合流する構成になってはいるんですが、不倫の描写を長々と映す必要性はあまり無いと思いましたし、震災の描写の嘘っぽさが拭えず、そこまでの緊張感がプツッと切れてしまいました。
後から知った情報で夫婦をはじめフィクションの人物が多く、そこは映画に昇華するためには致し方ないのかなと思いました。実在した人物にも少し色を加えてしまったのはリアリティを薄めてしまったのかなと思いました。テンポも特段良いわけではないので、台詞回しに違和感を覚えてしまったのは惜しかったなと思いました。
主人公としての役割はかなり薄く、主人公はおらず、一つの物語に多くの登場人物が同じくらいの頻度で登場しているといった見方が一番良いと思います。
時代は1世紀ぐらい違いますが、直近で観た「キリング・オブ・ケネス・チェンバレン」と同様、思い込みで衝動的に行動してしまった結果、あってはならない事が起きてしまったという悲劇を映像越しで体験する事ができました。自分が当事者で被害者or加害者の立場にいても行動を起こす事はできなかったと思いますし、誰かに従って失敗の策を選んでしまうのではないかなと色々考えされられました。
しっかり劇場で観ることができて本当に良かったです。これは書籍でじっくりと読んでまた考えを深めたいなと思いました。
鑑賞日 10/17
鑑賞時間 15:45〜18:10
座席 C-12
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