ケイコ 目を澄ませてのレビュー・感想・評価
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コロナ禍の人間模様
2020年を舞台にしていると明確に設定されている本作は、人々がマスクをして生活している。コロナ禍に制作された作品の多くは、マスクをしておらず、その作品世界ではコロナが存在しないかのような、奇妙あ平行世界っぽさを感じさせるのに対し、この映画にはコロナが存在している。そして、耳の聞こえない主人公にとって口元を隠すマスクは、コミュニケーションの障害となることも描かれている。
主人公の通うボクシングジムが閉鎖される理由にもコロナが関わっている。元々、古びたジムでオーナーが病気がちであることなど、複数の要因が絡み合っているが、本作は明確にコロナによって人生の分岐点を迎えた人物が描かれている。
後年、コロナ時代の映像表現を研究する時、この時代の作品の中の人間がみなマスクをしていないことに違和感を感じる人が出てくるかもしれない。そんな中にあって、この映画は時代の感覚を的確にフィルムに焼き付けていると思う。
表現者として高難度の挑戦を見事に成し遂げた岸井ゆきの
生まれつき耳が聞こえないがプロボクサーのテストに合格し、通算3勝1敗の成績を残した小笠原恵子さんの実話に基づく。彼女をモデルにした主人公・ケイコを演じる岸井ゆきのは、プロのレベルに見えるボクシング技術の習得(+体作り)と、台詞に頼らず手話と表情だけで感情を伝えるという、どちらか1つだけでも難易度の高い挑戦を、映画1本の主演で同時に2つに取り組んだ。引き受けるのも相当な覚悟だったと察せられるし、これを成し遂げたことで表現者として2段階も3段階も成長したのではないか。
題に含まれる“目を澄ませて”のフレーズもいい。ボクシングは敵の動きを注視して瞬時に反応し、攻撃する。手話のコミュニケーションも相手の手や表情をしっかり目視する。そして俳優も、人の動作や所作を観察して自身の演技に反映させる。観客の私たちもまた、ケイコが言葉を発しないぶん(手話の字幕はあるが)、彼女の一挙一動に目を澄ませて思いや感情を想像する。「視る」という行為に意識的になる鑑賞体験でもある。
16mmフィルムに刻まれた気迫と生き様に圧倒される
16mmの映像から生き様が伝わってくる。岸井ゆきのがリングで拳を構える時、その鍛え込まれた俊敏な動き、瞳にみなぎる気迫と執念にただただ圧倒される自分がいた。勝ち負けなどではない。強いのか弱いのか、あるいはボクサーとしての才能に恵まれているのかすら関係ない。主人公にとってリングや潰れかけのジムは、己の魂を唯一ただひたすら燃焼させることのできる場所。絞り込まれた体と筋肉が躍動し、一発一発のパンチが鈍く乾いた響きを放つ。日常生活における意思疎通や感情表現を体全体を駆使して行うケイコだからこそ、彼女が闘う時、そこには自ずと人生の全てが凄まじいエネルギーで集約されていくのだろう。岸井ゆきのによる映画史に残るこの役どころに留まらず、カメラはその周辺に生きる人々にも目を向ける。とりわけ、岸井とは異なるリングで生きることの”闘い”を体現した三浦友和。三宅監督が描いた二者の対比とつながりと併走に心が震えた。
実在の人物からインスパイアされた物語。主役を演じた「岸井ゆきの」が役者としての勝負をかけた作品。
本作は、生まれつき聴覚障害を持つ女性がボクシングに挑戦する「実在の人物」からインスパイアされた物語ですが、劇中で音楽を一切使わないなど、様々なリアリティーにこだわった意欲作となっています。
そして、本作で注目すべきは、何と言っても主役を演じた「岸井ゆきの」の存在感でしょう。
私が初めて「岸井ゆきの」を認知したのは、「愛がなんだ」(2019年)のスマッシュヒットを受けてからです。「神は見返りを求める」(2022年)から体を張りだしたなと変化を感じていましたが、本作では、役者としての「勝負をかけてきたような本気度」を強く感じました。
「岸井ゆきの」の演技は必見レベルですし、彼女を見守るボクシングジムのオーナー役の「三浦友和」の演技も相乗効果を上げていました。
欲を言えば、もう少しボクシングのシーンを見たかったですが、様々な葛藤を描いた作品なので、それを踏まえておけば問題はないでしょう。
16ミリフィルムで撮ることにより、事前に徹底的に準備をし、必要なものだけを撮るなど、様々なチャレンジをしていて、役になりきった「岸井ゆきの」の演技は「賞レース」等で大いに注目されるのは間違いないと思います。
Small, Slow But Steady
タイトルは、本作の英題。
私は、邦題よりも、こちらの方がこの映画の本質を捉えているように思える。
小さく、ゆっくりと、しかし着実に。ケイコは前に進む。そして、それはコロナ禍という異常事態であっても変わらず移ろいゆく「時の流れ」も同じ。
この作品は光と音の映画だった。
光。16mmフィルムは、解像度が低く、粗いようでいて、暗闇の中の街灯や電車の光を鮮明に、それでいてやさしく映し出す。
音。主人公ケイコ(岸井ゆきの)の台詞らしい台詞は、私の記憶が間違いなければ、「はい」という声とリングの上で相手に向かうときの咆哮だけだ。彼女を取り巻く人物達も決して雄弁ではない。
登場人物の台詞以上に雄弁なのは、都市の日常音、環境音である。中でも、何度も何度も出てくる電車の音。電車は、何かを遮るように突然現れ、音を残して去って行く。しゃべらないケイコのざわついた心情を代弁するかのように。
ケイコは耳が聞こえない。音が聞こえない。それなのに何故これほど日常の音を溢れかえらせるのか?三宅監督は、私たちがほとんど無意識に聞き流しているような音をあえて強調して聞かせることで、彼女のいる無音の世界を意識させようとしているのかもしれない。
ケイコは表情の変化にも乏しい。しかし、彼女は一人で戦っている。恐らく自分と戦っている。会長の妻(仙道敦子)が会長(三浦友和)のベッドの側で読む彼女の日記を聞いて、私の中でそれは確信に変わった。
そして彼女は敗れる。リングに倒れる。それを見た会長は、「よし!」と言って自ら車椅子を転がす。ケイコも走り始める。
終わってなんかいない。一歩一歩、着実に、前に進む。もう後ろには下がらない。前に進む。それは静かで、しかし力強いラストシーンだった。
三宅監督の力量に恐れ入った。
台詞無しでケイコという存在を演じきった岸井ゆきの。言葉少なくても味わい深い演技を見せた三浦友和。演じるとは何たるかを見せつけられた。私はノックアウトされた。
人間としての器量
冒頭の説明的なテロップの効果もあり、フィクションでありながらまるでドキュメンタリー映画を観ているような感覚を抱いた。
これが演出的にとても成功しているのだろう。
特にミット打ちのシーンは、演技ではなく本気で向かい合っているのが画面を通して伝わってくる。
そのリアルな臨場感がこの映画の持ち味だろう。
主人公は耳の聞こえない小柄な女性ケイコ。
王道なストーリーであれば、耳が聞こえないというハンデを克服し、ケイコがプロボクサーとして成長していくまでの過程を描くのだろうが、この映画では既にケイコはプロボクサーのライセンスを取得している。
そしてプロボクサーとしてリングに上がり、順調に勝ち星を重ねている。
リアルな空気感をまとったボクシング映画でありながら、ケイコがボクサーとして成長していくことに焦点は置いていない。
そもそもケイコがボクサーを目指した動機も謎のままだ。
この映画では語られない部分がとても多い。
ではこの映画の主題は何なのだろうと考えさせられた。
障害を持つ人間に焦点を当てているが、社会の生きづらさをテーマにしているわけではない。
印象的なのは、会長がインタビューでケイコにはボクサーとしての才能はないが、人間としての器量があると答えるシーンだ。
この台詞がこの映画ではとても重要なのではないかと思った。
ケイコは連続して勝ち星を重ねるが、突如ボクシングへの熱を失ってしまったように感じる。
それは会長がジムを閉めることを決意したことと無関係ではないだろう。
彼女がボクサーを目指したのは、そしてモチベーションを保っていられたのは、おそらく会長の存在が大きかったのだと思う。
認められたいという欲求とも違う気がするが、とにかく彼女は会長がいない世界でボクシングを続けることに意義を見出だせなくなったのかもしれない。
ボクシングとしての才能はないのかもしれないか、彼女はひたむきになれる強さがある。
そして無愛想だが実はとても親切で心優しい。
彼女が掛け持ちしているホテルの清掃の仕事で、新人にシーツの畳み方を教える時の柔らかな表情が印象的だった。
ケイコはボクシングを休みたいと伝えるために会長の元を訪れる。
しかしそこで会長が熱心に自分の試合の録画を見ながら、トレーニングメニューを組んでいる姿を見て驚く。
ケイコと会長が二人でシャドーボクシングをするシーンは印象的だ。
言葉を介さなくても、二人は心で繋がっていることが分かる。
そんな折り、会長は病に倒れてしまうが、再び彼女はボクサーとして戦う気力を取り戻していく。
ひたすらロードワークとミット打ちを繰り返す日々。
派手な試合のシーンよりも、そうした単調な基礎の練習の積み重ねを描くことの方が、この作品にとっては重要だったのだろう。
確実にミット打ちが上手くなっているケイコの姿に感動を覚えたのも確かだ。
努力を積み重ねても、必ずしも結果が伴うわけではない。
それは障害の有無とは関係がない。
悔しい思いをしても、地道に努力を積み重ねるしかない。
そしてひた向きに生きていれば、理解を示してくれる人は絶対に現れる。
ケイコの人物造形といい、かなりリアリティーのある作品ではあったが、どこにこの作品の肝があるのか、最後までいまいち理解出来ないままだった。
理屈抜きに好きになれるかどうかがはっきり分かれる作品だとも思った。
映画というより…?
「日常を覗き見た」というような感覚でした。
主演の岸井ゆきのさんが、それだけ演技力が高いというのもあるのかな。
他のレビューにもありましたが、ブサカワみたいな時と美しい時のギャップもなかなかです。
最後は、あら…終わり…?というような感じで、まさに日常をチラッと見たような感じ。
耳が聞こえないというのは、いかに大変なのか、そういったことも改めて考えさせられました。
サッと会話もできない、試合中に指示や声援も聞こえない、対戦相手の反則を伝えることもできない…
歯がゆいよなあ…と。
作品は1時間38分ほどでしたが、内容的にちょうどいい時間なのかなと思いました。
恵子の語りに耳を凝らして
三宅唱監督作品。
「全身で感じる振動=音は快感そのものだった」(小笠原恵子(2011)『負けないで!』創出版 p.96)
そのように本作の原案である本で恵子さんは語っているのだが、本作をみた私も同じように快感を得た。
フィルムによる味わい深い画、繊細に録られた音。
それらは各シーンに具体性をもって現れる。
序盤のケイコが更衣室で着替えるときにみえる背中の筋肉。会長と妻が病院帰りに歩道橋で歩くシーンで、電車の通過とその後の彼らの位置が決まっていること。ケイコが夜に河川敷で立っている姿。高架下で電車の光が点滅すること。会長がインタビューされている姿。生活音。紙に文字を書く音。電車が通り過ぎる音。声。唸り声。
もちろんボクシングの仕草も。スパークリングがあんなにも心地よいのは、ケイコとトレーナーの息が合っているからで、いやむしろ合っていなければスパークリングはできなく、美的価値を帯びない。
本作がカメラに収める出来事は、私たちの生活の地続きにあるものだ。それらを映画として再現前させて、観客は「目を澄ませる」ことになる。するとそれらの〈美しさ〉を再認識できる。その快感。三宅監督はそんな魔法を観客にかけるのだと思う。
だから本作をみた多くの人の感想は、「なんかよかった」何だと思う。よいのは間違いない。けれどそれだけでいいのかとも思ってしまう。
端的に思ったことは「なぜケイコはボクシングをやっているか」である。ボクシングをするのが快感だから?それはそれでいいけれど、「だからなんですか」になりかねない。もちろん聴覚障害であることの葛藤を全面に出すことはステレオタイプな障害/者表象になりかねない。けれどケイコが「人間」としてなぜボクシングに励み、闘うのか。その物語は必要なのではと思ってしまう。
それは私だけの感覚なのだろうか。ケイコはジムの退去に立ち会わなくていいし、会長からもらった帽子を被って、いつもと変わらないトレーニング、いつもと変わらない生活を送ればいい。それで「ケイコ」や物語は描かれたのだろうか。
ケイコがなぜボクシングをやっているか気になって、原案である小笠原恵子さんの『負けないで!』を読んだ。正直、映画よりもこの本の方が「面白い」。それは映画と比較して恵子さんが生い立ちからボクシングのプロとして活躍するまでといった語られることの多さもあるが、何より恵子さんがボクシングに実存を賭けていることがよく分かるからだ。
恵子さんは、生まれながら左耳が聞こえなかったが、右耳は聞こえていたため中学生までは普通学級に通っていた。しかし右耳の聴力もだんだんと落ちて、それに伴い学力も低下し、同級生が障害を理解することもなかった。そんな諦めや無力感が、彼女をグレさせた。高校生の時は先生の顔面を殴り、専門学生の時は寮から追い出され、バイクを乗り回して留年した。
ボクシングを始めたのは20歳の時で、動機は「なんとなく」。だけど強くなりたかったそうだ。この動機はなんとなく分かる。みんなと同じ普通になりたいのに、障害によって上手くできなくて、その解決方法が見つかったわけじゃない。将来の漠然とした不安の中で、何かしないといけない。障害による他者からの眼差しに抗うためには自身が強くならなくちゃいけない。そんな人生をかけた暗中模索で見つけたボクシング。恵子さんがボクシングをやる理由が、この本では語られている。
それは障害者がプロボクサーになる物語ではなく、恵子さんがプロボクサーになる物語だ。そこで障害は語られるが、それは一つの側面でしかない。だからこそ恵子さんが語られることは、私たちの「諦め」や葛藤とも普遍性を持つし、「面白い」と感じれる。もちろん恵子さんの苦しさを〈私〉の苦しさと安易に同一化することはできない。けれど確かに通じる部分はある。
恵子さんの面白さは事欠かせない。ボクシングをやり始める前の高校生の時、彼女は先生や親に暴行を働き、鬱憤を晴らしていた。なぜそんなことをしてしまうのか自問すると、部活動に所属しておらず力が有り余っているからと思い、ジョギングをやり始めた。そしたらそれが習慣になってしまったらしい。
実際、運動神経もよかったらしいが、さらに手先も器用だった。周囲の人と馴染むことができず、ひとりでこもることもあって、絵を描いていた。絵を描くことも上手で、市のコンクールで入賞するぐらいの腕前だった。絵に関して言えば中学生の時の出来事が面白い。当時、支援学級の先生が彼女に寄り添わず、指導要綱に沿って彼女と接したから、洋梨の絵を描いて渡したそうだ。その意味は「用無し」。恵子さんの賢さが分かると同時に笑えるエピソードである。手先の器用さは、その後恵子さんがボクシングの傍らでやる歯科技工士の仕事にもつながっている。
彼女がボクシングのプロになることは、女性で競技人口が少なく、さらに聴覚障害があるから尚更難しかった。だから彼女がプロになりたいと言うこともできず、ジムも転々としていた。そこで見つけた「トクホン真闘ボクシングジム」。ジムの会長も実は中途失明者らしい。だが障害に理解があるわけでもなく、恵子さんが耳が聞こえないことは「気で直せる」と思っているらしい。とても根性論だとは思うが、会長と恵子さんが向き合ったからこそ培われた関係はあって、だからプロになれたのだと思う。さらにジムのトレーナーも根気よく接してくれて、セコンドの指示がみえるようにリングサイドを動き回って指示したり、ボクシング用語を伝えるために、オリジナルの手話まで考案してくれたそうだ。
このようにこの本には、恵子さんの人生が語られている。さらに「面白く」。そしてふと思うのである。本作は、この「面白さ」を翻案しているのかと。もちろんこの本を忠実に映像化として再現する必要は全くないし、原案に留めることは問題ない。それは映画の制作における限界としてあるからだ。だが翻案においては、原作にあった普遍性や本質を取り出す必要はあるのではないだろうか。それがないとも言わない。けれど足りない。「試合中の母の不安がブレた写真から伝わってきた」(p.137)を映画で再現することでもない。なぜケイコが歯科技工士ではなくホテルの清掃員なのか、ボクシングをするのか、妹ではなく弟が登場するのか、所属ジムを変えることに拒否反応を示すことの意味が足りない。必然性が足りない。
恵子の語りに耳を凝らして。それもまた、私たちがケイコをみる時に必要なことだろう。
ケイコの勝利
生まれつきの聴覚障がいのため耳が全く聞こえないケイコ。ホテルの下働きをしながらボクシングジムに通い、プロのリングにも立つ。だがこれは、そんな不遇のボクサーのサクセス・ストーリーではない。むしろ挫折の物語だ。
彼女はなぜ闘うのか。勝とうが負けようがリングに立ち、ジムで汗を流す。そのことだけに命の輝きを求めようとしているかのようだ。荒川あたりの河川敷で共にシャドウボクシングに励むケイコとジムの会長、岸井ゆきのと三浦友和が、まるで『ミリオンダラー・ベイビー』のイーストウッドとヒラリー・スワンクに見えてくる。会長に甘えるような岸井ゆきのの楽しそうな表情が印象的だ。
試合に負けた数日後、ケイコは偶然出会った相手ボクサーからリスペクトに満ちた挨拶を受ける。彼女の勝利の瞬間だ。映画は静かに主張する。試合に勝つことだけが勝利じゃない、時に挫けそうになる自分に打ち勝ってこそ、真の勝利があるのだと。
気迫と生き様が見事に光る
2022年劇場鑑賞99本目 秀作 68点
演技派かつ中の下みたいな女性を演じさせたら右に出る者はいない岸井ゆきの渾身の作品
すげえ楽しみにしていたし、観る前から絶対に傑作だろうなあと思って足を運びましたが、何を思ったのか珍しく中盤寝てしまって、一番大事な描きの部分で情報が入らず見終えてしまった、、、
普段お金を払って寝ることないし、観る作品もだいぶ限定しているのでまずあり得ないのですが、失態。このままだと平等な評価ができないし、最近になってAmazonで配信されたので直ぐに見返します、、、以下追記欄に再評価します
『夜明けのすべて』を監督すると知って、どんな監督なのか観てみた作品...
『夜明けのすべて』を監督すると知って、どんな監督なのか観てみた作品。
それまでもこういった、落ち着いた雰囲気で主人公が何を考えてるのか観客が読み取ることを求められる作品は苦手だったので、賞をたくさん受賞して期待してたけど、私には響く部分は少なかった。
今回『夜明けのすべて』が凄く好きだったので何か感想が変わるかなともう一度観てみた。
初見の時より、光や音、色々こだわってるところは見えてきたけど、やはり私は『夜明けのすべて』の方が好きだった。
”セクシー田中さん”事件どころやない 無知な素人の原作者をおいてけぼりにしている しかしタイトルに、普通、ダジャレを入れるかな
ボクシングは素人なのでよく分かりませんが
身体は作ってきてますね
でもボクシング自体は、後付けのパンチ音で迫力をだしているだけ
スピードはないし頑張って腰を入れて打つところがオーバーアクションでいかにも素人っぽい
まあ、もろに付け焼き刃
マシントレーニングもどう見てもキレイフォームとは言い難い
演技はいつものように、なんにでも対応できる上手い役者だから、こんなもんでしょう
作品は聴覚障害のある女性ボクサーの話なんですが、はっきり言って薄いし浅い
ボクシングを始めた理由も普通、聴覚障害のために起こるトラブルも目新しさはない
それどころか耳が聞こえにくいとわかったのに、マスクをしたまま大声で話すのをを笑うところなのかどうか、戸惑ってしまう
簡潔に言うなら、紆余曲折したけど小さな日常から、勇気を貰って再起するという話
自伝好きならいいかもしれないけれど、普通は何も心を動かせるようなものが無い
ドキュメントとしてもね
そういう意味では、難しい役どころだったのかもしれない
そういう意味での
アカデミー賞主演女優賞かいな
よくある、役者にストイックな挑戦をさせるために選んだ題材という気がする
今回は岸井ゆきのがターゲットになっただけ
岸井ゆきのの挑戦映画です
つまり、主演女優賞狙いの作品でしょう
ネットで原作者の小笠原恵子さんのインタビュー記事を読んで驚きました
映画よりずっと波乱万丈な濃い人生
熱いハートとガッツのある魅力的な人でした(美人だし)
ジムの会長は映画以上にスゴい人で、彼女に影響を与える存在だった
その上
本人の知らない間に映画化が進んで、主役まで決まっていたとか(映画化の話はあったそうですが、いつの間にか立ち消えていたそうです)
本人は素人だからこんなモノくらいにしか考えていないけど
ストーリーも何も、映画を観るまで知らなかった
なんてこったい
”セクシー田中さん”事件どころやない
もっと言うなら、家族構成を変えたのは仕方ないにしても、主人公の職業は歯科技工士だったのに、ホテルの清掃係に変えられているのも腑に落ちない
職業に貴賎はないけれど、ボクシングといえばバイトしながらハングリー精神で頑張っているという固定観念を持たせたかったのか
それとも、時間の都合で単純な仕事に変えたのか
よくある”事実を基にしたフィクション”で誤魔化してるんですが、なんか嫌
本人はなんとも思っていませんけどね
ただ、共通点は暗かった事だけと言っています
つまり、聴覚障害の女子ボクサーという題材だけを利用した別の作品です
なのに、名前を恵子にしたり、目の悪いジムの会長とかはつかっている
もう、こんな映画は、はっきりいって作り直した方がいい
タイトルの”目を澄ませて”はしらけます
原作?の”負けないで!”では聴覚障害というのが分かりにくい
だからといって普通、ダジャレを入れるかな
全ての人たちをきちんと描く
「夜明けのすべて」があまりに良かったので過去作をと思い観ましたが、これも評判は知ってたけどとても良い作品でした。
耳が聞こえないボクサーという主人公の映画なので当然セリフは少ないわけだけど、目、歩き方、普段のオンオフ、ボクシングの身体性のアクション(素晴らしい!)で見事にそこにいる人として描かれていました。
生活音(電車の音、水面所の音、車の音)が際立つ音響で、これを主人公は聞いていないと思いながら見るととても不思議な感覚でした。
この映画も登場人物すべてがそこにいると思わせてくれる作品で、それが本当にこの作品をスペシャルにしていると思います。
エンドロールの生活風景のショットたちの中にも、今の映画の中にいたような人たちがたくさんいるのだなと思わされて、とんでもない作品と思いました。
頑なな気持ちがほどけてく
結局人はひとり
なんてことはない
それを静かに、だけど確かに伝えてくれる映画だった
弟の彼女、ジムの先輩、そして対戦相手とも
ケイコの頑なな気持ちがほどけていく描写にグッときた
友達とのやり取りに字幕がない軽やかさも、そこに日常がある気がして良かった
この時代ならではの展開にグッときた
ケイコにとって最後のボクシング大会になるかも知れない重要な試合が、まさかの無観客ネット配信試合になってしまった所で涙腺崩壊しました。
あの時代、大事な人の試合を直接見守る事も出来ず途切れがちな配信映像を、必死で食い入るように見る事しか出来なかった体験がある人にはグッと来るシーンだと思います。
フィクションという形をとったノンフィクション
現実の世界では、理由とか目的とかは、だいたい後付け。私たちは何となく何かを決め、日々の流れの中で何かが始まり何かが終わっていく。自分の気持ちをなぞってみると、理由らしきものを見つけ出すことはできるのだけれど、ぼんやりとした曖昧なものだったりする。普通の人の日常って、そんなもんでしょう、きっと。
岸井ゆきの演ずるケイコがボクシングを始めた理由も、またしかり。説明されるのだけど説得力はない。そして、やめる決意は中途半端で、ジムの人間関係の中で迷い、ダラダラと続けていく。ケイコの表情はいつも複雑で、見るものに明確な答えを与えてくれない。言葉にしない分、多くの思いが積み重なって、笑いながら泣いているような、泣きながら笑っているような。
リアリズムを追求すると、こういう映像表現になるのかもしれない。ボクシング映画といえばドラマチックな展開とカタルシスを求めてしまうけれど、現実のボクシング、そしてボクサーの日常には映画音楽なんて流れてこないわけだし。
だから、ケイコのリアリズムが強い説得力をもつ。ケイコが、迷いながら同時にひたむきに日々を積み重ねる姿に、心を動かされる。強さと弱さをあわせもつ彼女が身近にいるような感覚になる。
多くを語らない。そのことが、こんなパワーを生むとは。ちょっと、驚き。
独特な
生まれつき難聴にある主人公がボクシングを通して、語る人間の強さを描いた作品でした。
主人公を演じるのは、岸井ゆきのさんです。全編通して、セリフは、ほぼ無いです。それでもボクシングの動きや表情でどんな気持ちを写しているのか分かるくらいすごい演技でした。
実話を基にして作られた作品です。実際に耳が聞こえない中でボクシングの試合に臨むのは、とても怖い事だと思います。
誰の声も聞こえず、ただ1人相手と向き合い続ける。
怖さの中にある勇気が本当の強さに変わるのかなと感じました。
BGM
あらゆる音が聞こえる
流れる水、近づく自転車、縄跳び、足音
心地良いミット打ちのリズム
彼女は「音」を知らずに生まれ生きている
大きな問題かもしれないが小さくすることはできそうだ
彼女を見ていると大きな問題じゃないのかと思ってしまう
バイブが鳴る、扇風機がタイマーで動き出す
風がカーテンを揺らすとそろそろ起きる時間だ
どこの誰でも物語がある
会長には会長の、奥さんには奥さんの
2人のコーチ、弟、その彼女、母親、病院の老婆
この作品からはそんな人々の心が見えてくる
もっと知りたくなる、
会長の栄光
奥さんの苦悩
両コーチの私生活
弟の作品
彼女のダンス
母親の生活
老婆の生きがい
全てが主役になる
また縄跳びの音が聞こえてきた
練習そのものが画
両耳とも聞こえないケイコは、ホテルの客室清掃の仕事をしながら、プロデビューしたボクサーとして古いジムで練習に励んでいた。しかし、このまま続けるかどうか悩んでいる時に、会長の体調不良のためジムが閉鎖されることを知る。
耳が聞こえない女子プロボクサーの実話を原案にした物語。熱いドラマや、試合そのものの劇的な展開はありません。淡々としていながら、練習そのものが画になり、見入ってしまいました。俳優陣の演技のたまものです。
岸井ゆきのは「神は見返りを求める」で見ました。全く違った役を演じ、見事だと思います。これから楽しみな人です。
この映画の紹介文が全て。
コロナ禍で他人と距離をとりマスクをしている様は難聴の主人公にとってはさらに音を奪われた気持ちだろう。そんな彼女はマスクで読唇はできず、残されたコミュニケーションの手段である手話するその手にグローブをはめて人を殴り飛ばす。
それでも会長やトレーナーや彼女の家族をはじめとするケイコの周囲のいく人かの人間はそんな彼女と丁寧に接することをやめない。
ケイコは実はただ障がいのある人ということではなく、コロナ禍にあった私たちの象徴、もともとコミュニケーションに難のある現代人がコロナによりさらにその機会や能力を奪われた人たちだ。ケイコのボクシングは醸成されつつあったギスギスした人間関係がコロナでさらに悪化したことを表しているようだ。
しかし物語の最後、そんな現代人ケイコの前に現れたのは1人の作業服の女性。先日の試合の対戦相手だ。
これはケイコの殴っていたそのグローブの先の人間にも一つの"生"があることを気づかせた。
以降、ケイコにとってボクシングの意味は確実に変わったであろうということがわかる堤防の上の彼女の影、すれ違う人の影。エンドロール背景には時や人の営みを現すシーンが映し出されている。
……そんな解説を入れたくなる作品(笑
ついでに、、、
・カタカナでケイコとしたのは現代人を現すコードネームのようにしたかったのかも。
・岸井ゆきのの演技はまるでケイコという人物がそのままそこにいるような感じ。彼女の演技は☆5つあげたい。
・が、あまりに淡々と描きすぎているので離脱やつまらない等の感想を持つ方がいたらもったいない。
今回誰のレビューも見ずに作品を観て、レビューを書いたけれど、似たような作品印象が多いといいなと思ってる。
全262件中、1~20件目を表示