死刑台のメロディ

劇場公開日:

死刑台のメロディ

解説

1920年代のアメリカで実際に起こった冤罪事件「サッコ=バンゼッティ事件」の差別と偏見に満ちた裁判の様子を、「明日よさらば」のジュリアーノ・モンタルド監督が冷徹なまなざしで描いた実録ドラマ。

イタリア移民の労働問題が叫ばれていた1920年代のボストン。靴職人のニコラ・サッコと魚行商人のバルトメオ・バンゼッティはともに護身用のピストルを携帯しており、それを見とがめた警察は彼らがイタリア人だと知るや、即座に逮捕。2人はまるで身に覚えがない製靴会社の現金強盗殺人犯とされ、次々と提示される証言や証拠によって有罪の判決が下されてしまう。

サッコを演じたリカルド・クッチョーラが、1971年・第24回カンヌ国際映画祭で最優秀男優賞を受賞。音楽を名匠エンニオ・モリコーネが担当。公民権運動や反戦運動を支持した活動家としても知られるフォークシンガーのジョーン・バエズが主題歌および挿入歌を歌ったことも話題となった。2024年4月、特集上映「エンニオ・モリコーネ特選上映 Morricone Special Screening×2」にて、4Kリマスター・英語版でリバイバル上映。

1971年製作/125分/イタリア
原題:Sacco e Vanzetti
配給:キングレコード
劇場公開日:2024年4月19日

その他の公開日:1972年5月5日(日本初公開)

原則として東京で一週間以上の上映が行われた場合に掲載しています。
※映画祭での上映や一部の特集、上映・特別上映、配給会社が主体ではない上映企画等で公開されたものなど掲載されない場合もあります。

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(C)UNIDIS JOLLY FILM

映画レビュー

4.0苦しい

2024年5月10日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:映画館

遊ぶ時の幸福感を忘れないで・幸福感は独り占めするな/20年代・40年代・70年代・今、と人間は同じようなことをしている。今の日本だと、アナーキズムに賛同するほうが悪い、みたいなことを言い出す人もいそう、なんて先回りして心配してしまった。権力による抑圧を内面化している人が多そうだよね、なんて。

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ouosou

3.5迫真の社会派映画だが、モリコーネ音楽がフィットしているかというと……?(個人的意見)

2024年5月8日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

朝イチの回を観ながら思った。
新宿武蔵野館は、エンニオ・モリコーネを口実にして、政権交代が叫ばれる昨今の日本の政治事情や、いよいよ近づいてきたアメリカ大統領選に向けて、「左派系の社会派映画」を上映したかっただけなんじゃないだろうか?(笑)

本作はいわゆる「法廷映画」である。
それも、『十二人の怒れる男』や『推定無罪』、『レインメーカー』などと同様、捜査シーンより法廷内シーンのほうが圧倒的に多い、ゴリゴリの法廷闘争ものであり、しかも歴史上「冤罪で無実のアナーキスト二人が強盗殺人罪で死刑に処せられた」ことがわかっている「不当な」裁判の記録でもある。
その意味では『裁かるるジャンヌ』のような「宗教裁判」「魔女裁判」ものの気配も漂わせている。すなわち、これは国家によって悪と認定された人々が、法治主義を偽装した「権力による断罪」によって、人権を無視して電気椅子へと送り込まれた恐ろしい歴史的事実を告発する映画なのだ。

内容としては当然すこぶるつきに政治的な映画だし、当時の州知事や判事、検事に対して大変批判的である。一方でリベラル(アナーキストと訳される)に対しては総じて宥和的で好意的だ。これは、左派勢力が伝統的に強いイタリアで、特に映画業界には極左的なスタンスの人間が多いという状況がモロに反映している部分もあるだろう。

僕個人は決してアナーキストや極左勢力に殊更のシンパシーがあるわけではないし、自らの生きづらさを社会や国家や時の政権のせいにして、あたら正義を振りかざしているような手合いとは距離を置いて生きている。
ただしこのスタンスは、なんだかんだいってそれなりに生きやすい日本で生活しているからそう言えるのであって、最低限の社会正義や人種意識や法的公正さすら認められない社会であったならば、その限りではない。
本作で描かれるアメリカの1920年代というのは、まさに「変革されるべき」不平等と不誠実がはびこる極端なWASP至上主義の時代だった。

本作における検事&判事&陪審員は、明快すぎるほどの「悪」として描かれる。
だから、本作を観ているあいだは、僕も十二分に権力者に対してムカつくことが出来た。
検事の差別感情剥き出しの態度にいきどおり、判事のあり得ないような不公平な姿勢に、おおいに義憤に駆られる。
というか、昔から欧米の法廷ものを観ていると、出て来る弁護士や検事の手腕次第であまりに裁判結果に差異が生じるようなシステムになっていて、ここまでプレイヤーで左右される裁判ってどうなのかしらんと思わせられることが多いんだけど、今回のは本当にやり口がひどすぎる。ここまで恣意的で、被告に対して敵意も侮蔑も隠さないような議事進行が許されるなんて、本当に許しがたい。

一方で、法廷劇としてはなんとなく「ぬるい」印象を与える点は否めない。
事実に即して物語が組み立てられている以上、実際そうであったのなら変えようがない部分もあるのかもしれないが、いろいろもう少しやりようがあっただろう、という気もする。

まず、サッコにもヴァンゼッティにも、かなり明快な「アリバイ」があるのに、そこが判事によって証拠として採用されないというのは、さすがに無理押しが過ぎる。これが本当なら、そりゃあ暴動も抗議も起きるよなあって話。特に移民局の官吏の証言と入館メモを「シンパの偽証」として切って捨てるのは、まあまああり得ない(これを信頼できないと言い出したら、何一つ証言など採用できなくなる)。てか、自分が弁護士ならもっと「アリバイ」の証明に命をかけるし、最終弁論などでもそこを強調するけどなあ。

明確に偽証している人間が複数名判明しても、別に真犯人に当たる人物が名乗りをあげても、それらがすべて「弁護士による強要」として証拠不受理になっちゃうというのもあまりに理不尽に過ぎるし、逆に言うと弁護側はもっと慎重かつ組織的に立証すればいいのにとつい思ってしまう。
まあ何にせよ、あの判事は何も認める気がないんだから、どうしようもないのだろうけど。判事の罷免要求や交代要求の手続きってのは、当時存在しなかったのかなあ。
だからといって、ヴァンゼッティのようにあの場所で熱く政治的な演説をぶっても、法廷闘争上はマイナスの効果しか生まないのも分かり切っているし、いろいろもやっとする。

全世界であそこまでの反対運動が巻き起こっていて、対応を協議しているトップクラスがマサチューセッツ州知事というのも、若干気になるところ。
あれだけ世界中で問題視されれば、国家(=大統領)が再審の判断に暗に介入してきそうなものだけど。
だって、あそこまであからさまな恣意的な議事進行が記録に残っていて、あれだけの反対運動が世界中で巻き起こっているのに、法秩序の権威のためにごり押しで有罪を確定させて死刑執行に突き進んでも、何一つボストンの法曹界にもアメリカ国家にも、プラスとなる要素なんてないと思うんだよね。
逆に、あれだけの反対運動が起きているのに、それをうまく超法規的措置へとつなげていけない支援グループの「政治力」の無さにもいらっとさせられる。
事件が政治問題化してしまった以上は、逆にアメリカとしても一歩も引けない状況になってしまったということか。

というわけで、無理くり二人を死刑に追い込もうとする連中にムカつきながらも、ここまで相手側のやり口がズサンでつけ入る隙のある状況なのに、二人を救う手段を見出せない弁護側に対するもどかしさも、ずっともやもやと感じながら観ていたのだった。

― ― ―

ちなみに、アバンで展開される、イタリア人居住区を官憲が襲撃するモノクロのシーケンスは、言葉を喪うほどに素晴らしい。
画面内のモチーフが徹底的に統制され、様式化されている。
斜めに移動する警官隊の群れ。
路上に延びる影と建築物が交錯する。
入念にリハーサルされたマスゲームのような美しい動き。
引きとアップを切り替えるカメラのリズムが、静寂から暴力への転調と呼応する。
スクリーンの端々まで、監督の意図したとおりに人が動き、監督が思い描いたとおりのヴィジョンが現実化している。

このひりついた緊迫感と透徹した演出を全編にわたって行き渡らせることに成功していたら、本作は他のネオ・リアリズモの名作群に負けない傑作に仕上がっていたはずだ。
だが、映画は本編のカラーパートに入ってからは、比較的まっとうで癖のない演出とカメラワークに落ち着いてしまう。
もったいないといえばもったいないが(せっかくやろうと思えば出来ることがわかっているスタッフなのに……)、やりたかったことはそういうエッジのきいたドキュメンタリー・タッチの映画ではなかったのだろう。

「もっとハードでリアルなタッチのドキュメンタリー風映画」を志向すればきっと傑作になり得たのに、「若干情緒的で観客を煽るような政治的に偏向した映画」に仕上げたせいで損をしているという印象は、実はエンニオ・モリコーネの音楽とも無関係ではない。

モリコーネ・ミュージックとして、『死刑台のメロディ』は傑作サントラの一つとして知られている。とくにジョーン・バエズが歌う「サッコとヴァンゼッティのバラード」と「勝利への賛歌」は、ほぼすべてのベスト盤に収録されている、誰もが代表曲として知る名曲だ。
だが逆に、映画にとってモリコーネの音楽は本当にふさわしかったのだろうか?
そう言われると、僕個人の意見は「NO」としか言いようがない。

先に言っておくと、先般上映されたジュゼッペ・トルナトーレの『モリコーネ』の感想でも書いた通り、僕はエンニオ・モリコーネの大ファンであり、マニアとは言えないまでもかなりのサントラを所有しているし、その素晴らしさは人一倍知っているつもりだ。
だがやはり、それでも僕は思う。モリコーネ・ミュージックは、こういう告発型の社会派映画には向いていないと。
だって、せっかくのシュアでシリアスな「ドキュメンタリー」が、あのメロウで情動的な音楽が流れることで、『世界残酷物語』のようなモンド映画の「モキュメンタリー」みたいに感じられてしまうから。どうしてもモリコーネ節がオルトラーニ節みたいに聴こえてしまうから(笑)。

モリコーネの音楽は心を動かす力が強すぎて、どうしても観客を「煽動」してしまう。
主人公をヒロイックに見せてしまうし、共感を呼んでしまうし、正義を鼓舞して悪を断罪するような情緒的な反応を引き起こしてしまう。
でも、たぶんこの手の映画にとって、そういうのは「余計」な要素なのだと思う。
似たような社会派的な題材でも、ベルナルド・ベルトルッチは『1900年』でモリコーネ・ミュージックを理想的な形で用いていた。あのくらい叙事詩的で、ヒロイックで、壮大なスケールの歴史絵巻に仕上げるなら、モリコーネはぴったりの巨匠なのだ。
だが、本作のような密室法廷劇では、モリコーネのクセのある音楽は、たぶんとても使いづらい素材だったはずだ。

結局のところ、監督のジュリアーノ・モンタルドはモリコーネ・ミュージックをかなり「もてあましている」気配が強い。実際、本作のなかで音楽が流れるシチュエーションは、きわめて限定的だといってよい。要するに、モリコーネがこの映画のために作った曲は「あまり中で使われていない」。
パンフによれば、モリコーネは主題曲の「サッコとヴァンゼッティのバラード」だけで曲調の違う3パターンの楽曲を作っているらしいが、映画のなかで使用されたのはその1パターンだけだ。映画の大半を占める法廷内のシーンでは、そもそもほとんど音楽自体が流れない。たまに出て来る回想シーンとか街頭デモのシーンとかでいきなり音楽がかかるから、曲が「どこか悪目立ち」する。
結果的に、ジョーン・バエズの扱いにしても、ベトナム反戦歌みたいなきわめて情緒的でメッセージ性の強いものになっていて、個人的には若干むずがゆい感じだった。
いやあ、当然ながら曲自体はホントに良い曲なんだけどねえ(笑)。
当時の邦題を担当した宣伝マンも、モリコーネの音楽に強い衝撃をうけたからこそ、わざわざ『死刑台のメロディ』ってタイトルをつけたんだろうし(原題はただの『サッコとヴァンゼッティ)』。
ただ、どうも僕にとっては、使い方も、映画との兼ね合いも、あんまりしっくりこなかったという印象でした。なんかすいません。
とはいえ、こうやってサントラのみで知っていた映画を映画館で観させてもらえたのはありがたい限り。

以下、備忘録。

●あれだけ『荒野の用心棒』と『夕陽のガンマン』が好きだとか言って回っているのに、エンド・クレジットを見るまでヴァンゼッティがジャン・マリア・ヴォロンテだって気づいていなかった。ただただ自分が恥ずかしいです(笑)。藤本隆宏みたいな俳優さんだなとか思いながら見てました。

●こういう裁判で、容疑者二人がずっとツーマンセルで行動させられているのも(刑務所すら同じで、しかもお互いが見える範囲で収監されている)、今の感覚からすると不思議な感じがする。共犯の被告って、そういうもんだっけ?
あと法廷に出廷するときって、被告はずっと蝶ネクタイ着用のまあまあ良い格好してるのな。

●電気椅子のことも、一応死刑台って言って良いんだろうか?

●パンフでセルジオ石熊さんの解説を読んでいたら、ジュリアーノ・モンタルド監督の作品として、『クローズド・サーキット』(78)というテレビ映画が紹介されていて、いわく「ジュリアーノ・ジェンマ主演のマカロニ・ウエスタンを上映中の映画館で連続殺人が起きるというルイス・ブニュエル的不条理心理劇」らしい。やっべえ、超観てえ!!

●もし数年前にこの映画を観たのなら、「1920年代のアメリカの裁判なんて、たかだかこんな程度のもんだったんだなあ」といった印象を持っただけだったろうが、2024年になって改めてこれを観たとき、裁判手続きのインチキぶりや恣意的な判決、ごり押しの法執行といった部分が、たとえばロシアで現在行われている裁判あたりと「なんにも変わっていない」ことに衝撃を受ける。人間というのは、本当に愚かしい生き物だと思う。

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じゃい

5.0かなしい冤罪事件

2024年5月3日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

泣ける

単純

知的

死刑台のメロディ4K リマスター・英語版
神戸市内にある映画館「シネ・リーブル神戸」にて鑑賞 2024年5月1日(水)
パンフレット入手

1920年にアメリカで実際に起った、サッコとバンゼッティ事件の人種的・思想的偏見に満ちた裁判を忠実に映画化したドキュメンタリー作品
ジュリアーノ・モンタルド監督
エンニオ・モリコーネ音楽担当

1971年イタリア・フランス合作映画原題:Sacco e Vanzetti、米国ではSacco and Vanzetti)

ストーリー
1920年初頭のボストン、なんの前触れもく、イタリア労働組合が深夜に当局の一斉摘発を受けた。乱暴な警官たちは、事務所にいた男たちを殴り建物の中にいた活動家たちを次々と捕縛していく。時の司法長官アレキサンダー・ミッチェル・パーマー(ジョン・ハーヴェイ)による左翼弾圧の一環であった。第一次世界大戦をめぐる社会混乱とロシア革命に端する共産主義への不安と恐怖は、アメリカを「赤狩り」へと駆り立て、アナーキストの移民労働者たちを資本主義の根本を揺るがす社会悪と見なしていたのである。国家転覆の先導者として逮捕されたイタリア人活動家のアンドレア・サルセドなどは2か月の拘束の末、取り調べを受けていた14階留置所から落下するという不審死を遂げていた。
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辛くも一斉検挙の難を逃れた二コラ・サッコ(リカルド・クッチョーラ)と ロメオ・バンゼッティ(ジャン・マリア・ヴォロンテ)だったが、五か月後の1920年5月5日、ブラックトンに向かう電車内で突如、逮捕されてしまう。ふたりは活動家の仲間とともにブリッジウオーターへ修理に出した車を引き取りにいっただけだったが、彼らを怪しく思った修理工事主ジョンソンの妻が警察に通報したのであった。都合が悪いことに、両者とも護身用として拳銃を不法に所持していた。
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サルセドの不審死に恐怖を感じていたサッコとバンゼッティは労働組合員やアナーキストの側面を隠そうとし、取り調べても仲間の名前に知らぬ存ぜぬを貫いていたが、4月15日木曜日3時に南ブレントリー郡の製靴会社で起こった現金強盗殺人事件に関して、まだ解決の糸口を見つけられずにいた警察と検察は、彼らを容疑者とみなし、彼らがついたウソをダシにして犯人に仕立てあげようとする。
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裁判では検察側にフレデリック・カッツマン検事(シリル・キューザック) が立ち判事にはウェブスター・サイヤー(ジェフリー・キーン)が就いた。どちらもイタリア人移民を快く思わず、強盗殺人の疑惑に便乗して、サッコとバンゼッティの活動家の面も追及しようとする。弁護側に立ったフレッド・ムア弁護士(ミロ・オーシャ)は実績のある人物だったが、不遜で攻撃的な態度が陪審員の心証を悪くしていった。
事件の目撃証言は大半がいいかげんで曖昧、現場に落ちていた帽子なサッコが着用していたものという証言もあったが、実際にサッコがかぶってみると小さくて頭が入らない。一方で確かな証言をしようとした老人などは検察一派が黙らせてしまう。
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サッコには4月15日に南ボストンのイタリア領事館に行ったというアリバイがあった。実はサッコはアメリカ生活に見切りをつけ、故郷のイタリアに戻ろうとしていたのだ。領事館の職員がその旨を法廷で証言したが検察側はこれを黙殺。バンゼッティにもボストン近郊のプリマスで魚を売っていたという目撃証言が数件あった。しかしこれらについてもイタリア人同士の示しあわせとして判事と検事は全く取り合わない。さらに銃器鑑定では、被害者を死に至らしめたのはサッコが所持するコルト32から発射されたものに間違いないとのゆがんだ結果が下る。これに憤ったムアは叫んだ。「この法廷では、被告席がいちばんクリーンだ。検察側のやり口は人種差別だKKK(クー・クラックス・クラン白人至上主義主義の秘密結社)の発想と変わらない」と。
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証人席に座ったバンゼッティはついに自分はアナーキストだと宣言する。サッコは徴兵逃れのためメキシコへ逃亡していた過去を問われた。カッツマンは「愛国者がなぜ徴兵を逃れる?」と糾弾し、これにサッコは「アナーキストだから、人を殺す権利など誰にもない」と答える。
バンゼッティは「無政府状態(アナーキー)は国境のない世界をつくる。我々は階級が存在せず、自由が約束され、互いを大切にする社会を望んでいる。」と語ったが、カッツマンは発言を逆手にとって、いかにふたりがアメリカの愛国者ではないかを陪審員に向けて強調しながら、ストを行う警察官を撮影した写真を配り始めた。ムアは「労働者や組合への攻撃こそ、この裁判の目的だろう!」と怒りをぶちまける。
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1921年7月14日、陪審員の意見は2時間で一致、サッコとバンゼッティに対して「第一級殺人罪で有罪」の評決が読み上げられた。これと同時に、彼らを助けようとする救命委員会が発足、サッコは妻から慰めを受けるも、絶望して発狂寸前の状態になってしまい、刑務所病院へ搬送される。バンゼッティは静かに獄中でもできることを進めた。
弁護士の座を追われたムアに変わり、ウイリアム・トンプソン(ウイリアム・プリンス) が代役を買って出る。トンプソンは真犯人とおぼしきマンチーニに行きつくが、事件で使われたとおもわれる銃は何者かによって持ち出されていた。
弁護側の再審請求はあえなく却下。一方錯乱から回復したサッコは刑務所仲間に温かく迎えられる。
アルヴァン・フラー知事(エドワード・ジュズベリー)のもとには、全国からサッコとバンゼッティの救命嘆願書が届く。だが、保守派のフラーはこれらをにべのなく退けた。
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最終陳述でバンゼッティは語った「私は無実だ、私は生涯でただの一度も罪を犯したこともない。私が望んだのは正しい世界をつくること、そのためには他人を抑圧する人間を止めなければならない。生まれかわっても、同じ人生を生きるつもりだ」最終陳述に「何もない」と答えたサッコにバンゼッティは格子越しに伝える。何も抵抗しなかった君は正解だ。奴らはただの人殺しだ」
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1927年4月9日 セイヤー判事はからサッコとバンゼッティに死刑判決が下された。
8月22日 サッコは息子へ充てた手紙を机上に残すと、向かい部屋のバンゼッティと視線を交わして静かに処刑室へと歩き出した。手紙には「遊んでいるときの幸福感を忘れるな。幸福感を独り占めするな」とあった。その様子を見届けたバンゼッティは「私は無実だ」とひと言、毅然とした態度で処刑室へ歩きだし電気椅子に座った。
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感想

このような理不尽な冤罪事件があったことを、今まで知りませんでした。
自分なりに調べてみました。かなり知られている冤罪事件だったということで認識不足で恥ずかしいです。

アナキストが迫害されるというのは、同時期に日本でもあったような気がしてなりません。
治安維持法です

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大岸弦

2.51920年代の米国、イタリア系移民と、共産主義への差別、裁判劇

2024年5月2日
PCから投稿

死刑台のメロディ
1920年代の米国、イタリア系移民と、共産主義への差別、裁判劇
当時のイタリア系移民への差別の酷さ。。 政治思想での弾圧。。
冤罪で電気椅子。裁判劇。

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東條ひでき