少し前に実際に起きた事件をモチーフにした作品。
自殺ほう助サイト アカウント 自殺志願者 実際にある一定数存在する人々…
この深い闇にあるシリアスな部分と大阪丸出しの素直さというコメディタッチによって描かれている。
前半部分に多いこの独特のコメディタッチから、後半にはシリアスさのみになって行く。
笑いが、笑いではなくなってしまうのだ。
この作品のポイントは、並行線で描かれている楓の心と思考だ。子供の視点で見た出来事から様々なことを想像し、やがてたどり着いたものこそが、楓が探していたものだった。腑に落ちたと同時に、その正体と本性を見てしまったのだ。
寝たきりの人の看病疲れと「殺して」という言葉は、原田さとしを鬱にするのはよく理解できる。
地力を振り絞り自殺しようとした妻をしばらく観察しているのもよくわかる。
一思いにと思い、首を絞めてしまったのもわかる。
リハビリ施設にいた山内に手助けすると言われお願いしてしまったのもわかるが、それを原田本人がしなかったこと、見なかったことに、彼自身が持つ「本性の種」があったように思う。
山内にとってそれは自分の性癖と重なり、やめれなくなっていく。
そしてその後一緒にやろうと持ちかけられ、抵抗しながらもそこに落ちていく原田。
そこに見える「お金」。
楓は母の死に不信感を持っていたと思われるが、それはうっすらと頭の奥にあるだけだった。おそらく楓は母の携帯も見ていた。「母はいつも自殺サイトを見ている」
楓にとっては非日常的な思考を母はいつも抱えているということが悲しいと思っていたはずだ。そして実際起きてしまった母の「自殺」 小さな輪ゴムによる自殺だった。
やがて父が失踪してしまうが、楓はどうしても母の自殺が頭にこびりついていて、父もまた自殺しているのではないかと思ってしまう。
卓球上のパソコン キーボードの上にあったアカウントが書かれたコースター 自殺サイト
これによってますます父の自殺が心配になる。
やがて父を果林島で発見、父が供述した「事と次第」は警察や世間は信じたが、楓には多くの疑問が残っていた。
まず浮かんだのが母の自殺だっただろう。そして父と山内の接点を考えたはずだ。決定的だったのが、あの自殺サイトで再びあのアカウントが使われていることに気づいたことだ。
楓は失踪した実体である父を探しながら、父という人間の正体を探し続けていたことに自分自身が驚愕するというのがこの作品の見どころだ。
二人で卓球をする最後のシーン 落球後に球を使わないでエア卓球するシーンがある。
そこにあるはずのものがない。
なければ成り立たない。
あったと思っていたものが消えていた。
それがあったものとして卓球を続けてはいるが、それが虚しいことだと理解する。
球とは、もう楓の中から失われてしまった「父」の象徴だ。
遠くに聞こえてくるサイレン。
「迎えに来たで」とは大阪人なら誰もが遣うギャグ。
このギャグがギャグになっていない寂しさ、切なさ。
楓の気持ちを考えると涙が出てくる。
この言いようのない余韻、素晴らしいとは言いにくいが、面白かった。
作品として納得できた。