劇場公開日 2024年5月3日

「一瞬のかぎろいのような「少女性」を「永遠の12時00分」に封じ込めたカルト作。」ピクニック at ハンギング・ロック じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5一瞬のかぎろいのような「少女性」を「永遠の12時00分」に封じ込めたカルト作。

2024年5月19日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

品位と気品のある、デイヴィッド・ハミルトン。
あるいは、年齢層高めの『エコール』『ミネハハ』。
そういっちゃうと、身もふたもないけど。

ロリータと呼ぶには若干とうの立った、ハイティーンの少女たちの一瞬の美と崇高さ。
それを、1900年というヴィクトリア朝最末期の時代設定と、白ワンピに黒ブーツのフェティッシュな清楚系お嬢様ファッションと、オーストラリアの大自然と、幻想的なカメラワークと、オープンエンドの後味の悪い脚本によって、永遠の12:00に封じ込めたカルト作。

少女たちの集団失踪事件を扱った映画ではあるが、原作ともども「オチがつかない」こと自体に意義を見出すべき作品であって、いわゆる論理的なミステリーとしては全く機能していない。むしろ「ロジカルにオープンエンド(解決のつかないエンディング)を設定する」ことで、巧みに観客を置いてけぼりにして五里霧中の状態に放置することを、緻密な計算でどまんなかから「狙った」作品である。
よって、事件の真相についてあれこれ考えても、もとより答えは出ないように出来ている。
一方で、全編にはりめぐらされた象徴性(シンボリズム)と暗喩(メタファー)の積み重ねは、本作が「少女性」を取り巻く危険と束縛、そこからの解放と自由の獲得を描いた象徴主義的作品であることを如実に示している。

「コルセット」と「革靴」と「教条的な校長先生」に象徴される、英国的で19世紀的で白人的でキリスト教的なヴィクトリア朝時代の「女性を縛る枷」。
彼女たちは、常に規律と教訓によってがんじがらめにされ、お仕着せの制服とコルセットと革靴によってきつく縛り上げられ、「善き淑女たれ」という周囲の要請する価値観にさらされている。
本作は、オーストラリアの原初的な大自然の力を借りて、それを少女たちが脱ぎ捨て、「まだ見ぬ自由」へと逃亡をはかる物語である。

純白の装束を身にまとったけがれなき少女たちは、
飼育される白い七面鳥の群れにたとえられると同時に、
優雅に湖上を泳ぐ、美しき白鳥にもたとえられる。
あるいは虫にたかられる柔らかそうな白パンに。

アップルヤードという学園名には、エデンの園と「原罪」の香りがつきまとう。
そこで、無垢なる少女たちは、蛇(トカゲや虫)による挑発と試練を受ける。
時の止まった12:00。現実と非現実のあわいで、知恵の実に手を伸ばしてしまう三人の乙女。
彼女たちは、神の束縛と知的制限からの自由を手に入れるが、一方で、楽園からは追放されざるを得ない……。

彼女たちの逃走劇の「触媒」となったのは、「霊山」であり「奇岩」だ。
オーストラリアでは、エアーズロックに代表されるように、「岩」がアニミズム的信仰の対象として原住民によって崇敬されてきた。
それは、キリスト教的なる人工の信仰体系とは対極にある、なにかしら土着的で、自然神的で、呪術的な、古代につらなる「モノリス」だ。
――そう、ちょうどイングランドにおけるストーンヘンジのように。
彼女たちは、「ピクニック」という非日常の「自由な空気」のなかで、この「霊山」の神秘の力を媒介に、一瞬のスキをついて、取りつかれたようにまだ見ぬ高みへと登ろうとする。

同時に、屹立する「山」が、男性的象徴としての機能を有している点も見逃せない。
山で失踪した少女の「コルセット」だけが喪われていたというのは、束縛からの解放を表わすとともに、性的な経験を通過儀礼として経たことの隠喩でもあるだろう。
これは、山で男たちに犯されて、かどわかされて、殺されて、埋められた、ということを直接的に示しているわけではない(校長先生は実際にそういうことが起きたと確信している様子だったが)。あくまで「概念的」な現象として「そそり立つ突起に自ら挑んだ少女たちがコルセットを外す」という事象が、少女性からの脱皮を示唆しているということだ。

そのなかで、小太りの少女(山においては体重によって大地に引き戻される存在)は、何かしらの危険(=キリスト教的な世界観からの逸脱)の気配を感じ取って、警告の悲鳴をあげながら隊列から脱落する。
それから、令嬢として富と名声を身にまとったダークヘアの少女も、一週間後に「異界」から「返される」。
結局、「あちら」の世界へと旅立って帰ってこなかったのは、才色兼備のマドンナとして学園で君臨していたミランダと、知的好奇心旺盛なメガネのアスペっ子と、男性的(マスカリン)な内面を備えた女性教師の三人だった。
彼女たちは、何かに「巻き込まれて」失踪したのではない。
彼女たちは、「高みへと登る」ことを目指し、
自らの意志で至高の地へと旅立ったのだ。俗世を捨てて。
そう考えれば、必ずしも本作は「悲劇」とは言えなくなってくる。

もちろんラストに待ち受けるのは、二つの悲劇だ。
「お姉さま」と「お兄さま」だけを慕う孤独な少女と、
「男性的な女教師」に心から頼り切っていたと述懐する老女。
俗世に取り残され、絆を断ち切られた二つの魂が辿った悲劇。

でも、女性があらゆる約束事に束縛されて自由に生きられない現世からの逃避、離脱を「前向きに」とらえることがもし許されるのなら、二人の決断もまた、必ずしも100%の悲劇とは言えないのではないだろうか。

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●『PaH』と「24年組」
森のなかの寄宿学校。同性愛的志向。
突出して優秀な、誰からも敬愛されるエトワール。
その死と不在が学園を呪いのように覆い、
静かな波紋が新たな事件を引き起こしてゆく……。

日本人なら誰しも、本作(1975)の持つ世界観と『24年組』――萩尾望都、竹宮惠子、山岸凉子、大島弓子ら――の挑んだ世界観との同時性(彼らの最盛期も70年代半ばだ)を感じざるを得ないだろう。
だが、日本の漫画家たちは、この映画を少なくとも1986年まで観ることは出来なかった(本作はピーター・ウィアー監督の『刑事ジョン・ブック 目撃者』がヒットしたのを受けて後追いで公開された)。要するに、両者はお互いを知らないまま、このような作品を作り合っていたというわけだ。
おそらくなら、僕の気づかない共通の始祖があるということなのだろうが、英米のメインストリームからは遠く離れた極東の地で、赤道を挟んでこれまた遠く離れた日本とオーストラリアのアーティストが、英国的な寄宿学校カルチャーを題材にとって、これだけ幻想的で耽美的な心に刺さる作品を競作していたというのは、とても興味深い現象だ。

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●『PaH』の東洋性
比較的なだらかで、素人でもハイキング感覚で登れる立地ながら、頂上付近には剥き出しの岩壁が土柱状に立ち並ぶという奇観は、関東近郊でいうとちょうど山梨の瑞牆山や群馬の妙義山を思わせるところがある(奇岩の洞を抜けていく感じは愛知県の乳岩っぽくもある)。中国でも、武陵源や桂林など、こういった岩峰を抱える奇峰は仙境として崇敬の対象とされ、格好の山水画の画題とされてきた。

その意味で、ハンギングロックの全貌を正面から映す冒頭のショットは、実に「中国」的で印象深い。
そそり立つ奇岩の絶壁と、低山の広がり、そして上部を広範囲に覆う湿潤な霞。
この風景はまさに、中国宋代山水の「郭熙の三遠――高遠・深遠・平遠」を想起させる画面構成だ。アボリジニ的というよりは、構図感が実に東洋的なのだ。

そういえば、東洋には「桃源郷」「隠れ里」の伝承が広く存在する。
要するに、深山幽谷まで分け入っていくと、この世の理から離れて隠棲できる理想郷があるとする考え方であり、「仙境」の思想が山岳信仰と深く結びついている一例である。
そして、そういう里に姿を消して帰ってこないことを「神隠し」という。
まさに東洋的な桃源郷幻想は、山の頂を目指すことで俗世からの転生をはかった少女たちを受け入れるには、ドンピシャの民俗学的背景だといえる。
だから、本作における岩壁のショットの、范寛『谿山行旅図』のような「高遠」を示す仰角アングルや、斧劈皴 (ふへきしゅん) ・披麻皴 (ひましゅん)を思わせる 岩肌の描写は、決して偶然ではなく、寄宿学校のキリスト教的な閉じた世界に、東洋的な「脱俗」の感覚を取り入れるための意識的な「寄せ」と考えたほうがよいのではないか。
桃源郷に入っている間は時間が止まるというのもいかにも東洋的な感覚だし、「足を縛っている拘束からの解放」が「自由」へとつながるというのも「纏足」を思わせるし。
あと、きわめて重要な言葉として、ミランダが「夢のなかの夢」というフレーズを口にするのだが、これって中国故事における「胡蝶の夢」だよね。

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●『PaH』と西洋美術
当然ながら、本作は西洋的な絵画史的伝統も深く受け継いでいる。
まず、森を描写する柔らかな陽光と、淡く茶色がかった色調は、僕にカミーユ・コローの風景画のそれを思い出させる。
それから、ピクニックと称して大自然のなかに配された美少女たちの姿は、マネやルノワール、スーラの印象派絵画、ブグローやカバネルのアカデミズム絵画、あるいはイギリスのラファエル前派の絵画(『オフィーリア』など)を容易に想起させる。
そのほか、「ハートの形をしたヴァレンタイン・ケーキをナイフで真ん中から切る」といった象徴的な表現や、鏡、写真立て、肖像画、グリーティングカード、ドライフラワー(「押し花」もまた抑圧と囚われの象徴だろう)などの印象的な使用など、絵画表現に由来する要素は随所で見ることが出来る。作中では女教師がミランダを「ボッティチェリの天使」にたとえるシーンも登場する。また終盤には、校長室の壁にラファエル前派と交流のあったフレデリック・レイトンによる『燃え上がる6月』の複製画が掛かっているのも一瞬目にすることが出来る。
何より、岩塊のふもとで少女たちが三々五々休憩しているシーンは、まごうことなき「活人画」(タブロー・ヴィヴァン=実際の人間を使って舞台上で絵画の一シーンを再現する見世物)の技法で作られており、パゾリーニやグリーナウェイとの相似性を感じさせる。

その他、備忘録。

●上記の白い七面鳥やコブハクチョウ、トカゲ、蟻以外にも、本作にはオーストラリアの動物たちが登場する。
二度、大群の群れでインコが登場するほか、青年の腕にセミが止まったり、青年たちが山狩りに出かけるときに、樹上でクモとカミカザリバトと別種のインコとコアラが順番に映し出されたりする。コアラってマジで野生でいるんだ! あと、探索の途中には、アゴヒゲトカゲが! それと動物ではないが、オジギソウ(笑)。

●音楽は、パンフルートの名手ザンフィルによる主題曲が大変印象的。パンフルートというのは、好色な牧神パンが自分から逃げだした処女のニンフが姿を変えた葦を使って作ったとされる笛で、本作の主題(処女性の永遠性、逃亡と変容)および田園画(パストラル)の伝統と深く関わっており、メイン楽器として実にふさわしい。
それと、少しマイケル・ナイマンとフランシス・レイを混ぜたみたいな感じの、緊張感のあるピアノメインのオリジナル曲も何度も出て来る。
クラシック曲もあちこちで援用される。一番かかるのがベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」の第二楽章。ほぼ第三の主題曲といった扱いだ。
それから、山への出発の際にはバッハの平均律クラヴィーア曲集のピアノ版が流れ、園遊会ではモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」とチャイコフスキーの弦楽四重奏曲第一番第二楽章が、屋外のカルテットによって演奏される。あとは少女たちが歌う童謡とか。山に少女たちが登っているときは、ずっと得体の知れない謎の「ゴゴゴゴ」という響きが鳴っているが、パンフの監督インタビューによると、地震の音を効果音として入れているらしい。

●何はともあれ、ミランダ役のアン=ルイーズ・ランバートが可愛い!!! 以上。

追記:ネットで「The Lost Ending」なるものを発見!! 現在のラストシーンのあとの校長の様子を描いたファウンド・フッテージで、大変示唆的な内容だった。これは創元から出ている原作も読んで観ないとなあ。

じゃい