69-70沖縄ドキュメント モトシンカカランヌー

劇場公開日:

解説

モトシンカカランヌーとは沖縄の方言で、元金のいらない商売、または仕事のことで売春婦、ヤクザ、ドロボウ、などのことである。このドキュメンタリーは、コザを中心に、この二年間の沖縄に強いられた政治的状況をこれらの主人公との関りの中でとらえようとしたものである。沖縄に対する大和-日本本土との関係が明らかに、差別、収奪、犠牲の歴史であり、せまりくる七十一年本土復帰が新しい位相を持った第三次琉球処分であるとき、沖縄の政治的・社会的最下層のモトシンカカランヌー達の貌は……。しかし、沖縄に対する現在進行中の差別が“近代差別”であるとき、それらの人達(モトシンカカランヌー)と製作者の関係は……。ドキュメンタリーはひとつの新しい関係性の発見と相互止揚でなければならない。十七歳の売春婦アケミの「ヤマトンチュウ(日本人)はやさしいね、うん外人みたいさ」「あんた達(製作者)と話していると、英話で話しているみたい」、そして小学校のオルガンの前で歌うように歌うテーマ、“見捨てられてもわたくしはあなたにゃ未練は残しゃせぬ……“奥山育ちのウグイスが、梅の木枝で昼寝して、花の咲くような夢をみてホケキョホケキョとないてます……。本原住民はこれらの言葉を、歌をどのように聞けばよいのか。船で来沖した総評労働者の沖縄の人へのインタビューは、沖縄に対して本原住民の欠落した〈恥〉を暴いてゆく。そして、この本土への拒否と告発はどのようなエネルギーの表現形態で果たされてゆくのだろうか。製作者はあのコザの八十数台の米軍車を焼き打ちした当時、沖縄には居なかった。しかし、モトシンカカランヌーのポスターにはこう書かれている。「日米共同声明」日米両政府がそのすべての力をふりしぼり--巨大なスケールでうちだされてくる上からの制度化。沖縄にかかわる一切の思想営為が、それに拮抗する表現形態を見い出せないまま、皮層的な政治潮流の中に解体、霧消されようとしている。「国政参加」「企業進(侵)出」「本土一体化政策」政治・経済・文化、それぞれの体制包摂の攻勢に言葉を、魂を失っていくのだろうか。七〇年十二月夜、基地の街コザ市の民衆の蜂起は、あたかも、逆流であるかのような潮流に対する--一方の貌--である。それは、戦後沖縄の「ミリタント」達が国会議事堂へと消えていった舞台の暗転の中で勃発した幻のコミューンであり、実際であった。その主体は、指導者は……。沖縄で出合った、前代近ヤクザ、売春婦、集団就職帰りのバーテン、ボーイ、ブラック・パンサー、市民のいない街コザ市、政治闘争・首都制圧闘争・封鎖(僕達の空間)の後の現代虐げられる僕達……。

1971年製作/116分/日本
配給:その他
劇場公開日:1971年6月30日

ストーリー

※本作はドキュメンタリーのためストーリーはありません。

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