黄金の河

1998年製作/101分/ポルトガル
原題:O Rio do Ouro

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映画レビュー

4.0耽美なマジックリアリズム映画

2023年3月1日
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アテネ・フランセ文化センターで『恋の浮島』『モラエスの島』と立て続けにパウロ・ローシャなる未知の映画監督の作品を観てきた。殊に『恋の浮島』は全編にわたって詩的な表現体系が漲っており、その壮絶さに圧倒されながらも同時に睡魔との苦闘を演じなければならなかった。俗な言い方をすれば、もっと劇映画っぽい劇映画から観たかったというのが本音だった。

その点本作は劇映画としてちゃんと面白い。山奥の運河に面した秘境という舞台設定といい、粗暴だが弱々しい男と狡猾で執拗な女という対立構造といいナラティブの力強さといい、まさにガルシア=マルケスやカルペンティエルの描き出した南米マジックリアリズムの豊饒な混沌世界そのものだった。

マジックリアリズムを映像で表現するというのは意外にも難しい作業だと思っていて、一歩間違えれば単なるスナッフ・フィルムか先進主義的な秘境ツーリズムに陥ってしまう。殊に映画は「視覚」へ強く訴える媒体であるから、「変なものを撮ってやろう」みたいな作り手の企みはすぐさま受け手にバレてしまう。しかしマジックリアリズムにおいては、正常だろうが異常だろうがお構いなしに、そして無自覚的に自らの燃料としてしまう強力なナラティブにこそその魅力がある。つまり「変なものを撮ろう」と力まないで「変なもの」を撮らなければいけない。

本作はそのあたりがかなり巧い。前後のレイヤー性を意識したロングショットが好例だろう。たとえば、岸辺の小舟に若い女と初老の男が乗っているシーンでは、同時に画面の奥の浚渫船で船員たちが作業をしている。さて、受け手はいったいどちらに視線を注ぐべきなのか。カメラの焦点はおそらく意図的にはぐらかされていて、我々の視線は画面の中をあちこち彷徨う羽目になる。そして気づいたときには若い女が初老の男にナイフを向けている。このように、画面の中に同時に複数の系列を招き入れることで、何か一つのできごとを特別化しないよう工夫している。村祭りのシーンなどもそれが活きていた。

初老の女が継子である若い女に嫉妬し、あの手この手で彼女を妨害するという本作の物語は、よくある継子いじめモノというよりは、もっと土着的な因果性みたいなものを感じさせる。若い女はズル賢い初老の女とは異なりあたかも純情そうに振る舞ってはいるものの、物語の随所でとんでもない本性を隠し持っていることが示唆される。同時に初老の女に関しても、昔から色事について散々悪事をはたらいてきたようだ。そして二人は町の外からやってきた金品セールスマンの紳士にほぼ同時に恋をしてしまう。

つまりこういうことがいえるかもしれない。初老の女にとって若い女は「過去の自分」であり、若い女にとって初老の女は「未来の自分」である、と。初老の女は過去への憧憬ゆえに若い女を虐め、若い女は未来への絶望ゆえに口を閉ざす。しかし運命は既に確定してしまっている。初老の女が辿ったおぞましい生き様を、若い女もおそらく踏襲していくことになるのだろう。彼女がふと露呈させる狡猾性・暴力性が端的にそれを示している。

終盤、若い女が椅子に縛り付けられ、全身に蜂蜜を塗りたくられるシーンは官能的だ。そこに群がる無数の蜂たちは、蜂というよりはむしろ糞便にたかる蝿のようで、画面全体にScatology的な危なっかしいエロスが漲っていた。あるいは無数の男と関係を持つ淫乱性の隠喩か。

パウロ・ローシャという監督はペドロ・コスタと並び立つポルトガル映画界の重鎮であるらしいが、残念ながら日本国内ではあまり知られていない。3~4本しか観られていない私が言うのも差し出がましいが、引き出しの多さと作家性を両立した稀有な監督だと思う。また特集が組まれる機会があればぜひ行ってみたいと思った。

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